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「福一一号」二等水準點 陸地測量部 明治41年(1908) 設置 (2010.07.04.確認)
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【大原新町の『福一一』標石】
沼田インターから尾瀬や会津方面へ向う時は、現在は沼田市生枝の椎坂峠を越える。(現在、隋道工事中)、それまでは片品川に沿って上久屋、薗原、老神、追貝、鎌田の各集落を通る会津街道を行く。 大原新町は椎坂峠のある尾根を越える道が開通すると大原集落を通過し、それまでの老神集落を通らない。 「点の記」に大原新町とあるのは、明治に大原集落に新しく拡充からであろうか。
明治期の旧版図に「福11」の水準点記号の記載はないが昭和に入ってからの旧版図に記載されている、今回「点の記」と記載の旧版図を持って現地へ行ってみた。
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上面に球分が無い、後面に「徳二四号」の刻字 発見時の標石は、苔が全面覆っていた、写真は苔を上面前面を剥がした状態
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【徳二四号二等水準點 点の記 国土地理院情報】
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【標石データ・現況】
標高 704.748m (地形図記載の数値)
寸法 140mm ×140mm 長さ(深さ)は不明(地表部 250mm)
刻字 前面「二等水準點」 後面「福一一」 側面 記載なし * いづれも縦書き
形状 角柱 上面は凹凸あれど平らで球分体がない。 上面角の面取りあり
緯度経度 36°55′29.8″/ 139°25′42.5″(GARMIN社製 GPSmap 60CS の数値)
標石材質 花崗岩 (上野国産花崗岩と点の記に記載あり)
「二等水準點」「福一一」の刻字は、彫が浅く見えにくい。
集落を通る道路は改修により拡幅された、標石も移動され現在の所に設置されたようである。
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【探索ストーリー】
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引馬峠は会津や栃木の山に詳しいYoshiさんが歩かれた平五郎山からの情報が峠の存在を知る最初でした。 平五郎山ルートは標石探索の事より引馬峠までの道程で、激薮の尾根は長く日程上からこのルートからの探索は断念した。
・第一回探索(2007.07.28-29)は、県境の馬坂峠から台倉高山経由の県境尾根ルートとした。 馬坂峠からは台倉高山までは登山道も整備されている。 その先からは原生林を倒木や岩を越えて行く、台倉高山先の鞍部は湿地でその先はチシマザサの激薮である。 引馬峠での探索は予想していた状況と違い陽射しの無い樹林帯で日暮れも早い所だ。 上空を樹林で閉ざされGPS精度が落ち、広い峠での位置特定に自信が持てず区域設定がやっとで発見に至らず終了した。
・第二回探索(2007.08.11-12)は、薮山経験の豊富な鵜沢さんとの二人での探索行となった。
出発地を越ノ沢ルートに変えて引馬峠へ向う、途中の越ノ沢橋では埼玉SSKさんの見送りがありました。 二回目の探索は現地を見ているので再度探索には次の手も準備し望んだ。 事前に資料を息子見せると県境は少し東側でないかとのアドバイスも頭に入れていった。 前回に区域特定の仮点を半径25mの周囲にピンクの紙テープでマークを設置しておいた。 県境の引馬山から引馬峠へと倒木を乗り越え笹の濃くない所を拾って下り歩く。 引馬峠が近づいてきた、山部には前回設置のピンクテープが見えた、それに引かれてテープに近づき横を通り過ぎる。 その直後、鵜沢さんのストックが岩を突く音を背後に"ガチン"と聞いた。 ストックで付いたその周りの石が保護石だと直感できた。 三角点のたたずまいだと鵜沢さんも解ったらしい。 この広い峠の中で針の穴を射抜くようなラッキーな一突きであったのだ。 なんてラッキー、なんてラッキーなのだろう。 神様は本当にいる鵜沢の神様が来てくれたと感じた。
覆われていた苔を取ると「二等水・・」文字を確認する、二人で顔を見合いやったーと感激した。 設置から100年目の発見、こんなあっけないものになった。 前回のマークした木の根元に有るなんて驚きである。 今日見つけられなかったら次ぎの探索計画を立てただろうか、亡失してから30年、設置してから約一世紀後の発見に何かの因縁を感じた。
その日は引馬峠にテント泊した。翌日は孫兵衛山へのピストンし昼頃に引馬峠に戻った。 峠に向って尾根を下っている途中で鈴の音を聞く誰か峠に居るなと感じとる。 峠に戻ると今回の探索の情報交換をしていた「@宇都宮」さんが峠に到着した所であった。 発見を知らせ標石に案内し共に喜び合いました。 引馬峠水準点探索には多くの方々からの情報や激励をいただき、発見のご報告が出来る事で報いられる思いです。 感謝、感謝。
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道路改修をしたが、標石を個人宅地へ移動してあった 140-140-230
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