庚申山 下野国誌 | |
![]() 歌川芳虎(一猛斎芳虎)画 庚申山の場 服部仁氏蔵 |
【下野国誌の中の庚申山】 下野国誌とは、江戸時代後期に芳賀郡大道泉村(現真岡市)の河野守弘により書かれた。 『 安蘇郡足尾郷赤岩と云う所にあり。 二子山の峰つづきなり。 日光山より西の方にあたりて、七里許なり。 黒髪山の南の方にあたれり。 さて足尾より凡十町余り行て、廿町許登り、たふけ(峠)よりまた十町余り下る、此所より銀山まで一里のあいだ沢づたいに行、それより登ること三里余りにして、庚申山の胎内寶(クグリ)と云う岩窟に至る。 此所に休息して登るなり。 奥の院と唱うる所まで其所より一里許、さて胎内寶といえる石室は、凡広さ十坪許もあるべし。 夫より二十間許登りて、左右に大石立てり。 --- 中略 --- さて奥の院と唱うるは、嶟(ソン)々たる三窟ありて、屹として高きこと二、三丈、嶙として近つくことあたわず。 其形、中はまろく、左なるはうろこのかたち、右なるはまどなり。 いづれも規矩を以て作るが如く、口おのおの八、九尺許づつあり。其前に猿の形に似たる活石三ツ並べり。思いなしにや、視ることなかれ、聴くことなかれ、言うことなかれの箴(イマシメ)とも見ゆ、彼レ是レを思いあわせて、庚申山とは名づけたるべし。 さて其右の方に登ること数百歩にして、東のつまと云う所あり。 眺望いうばかりなし、夫より下ること四町余りにして、大石あり。 平石と唱う。 長さ三十間許、高さ一丈余り、建屏のの如し。 此石のきれめの間より、下ること八町許にして、はじめの胎内寶の東の方に出るなり。 是この神境は人寰を避ること遠く、ことに絶険の地なれば、昔より志る人も稀なりしを、元禄年中より、やや登山するもの彼是ありといへども、容易に及ぶべき所にはあらざりしを、都賀郡三谷村の佐野一信という者、薬品を求めん為にこの山の岩窟を探り、夫よりこの佳境を開かんと、いささかの道を造りて、人をみちびくこととはなりぬ、そのゆえを、文政三年(1820)の夏の頃、上総人三橋臣彦と云う者にはかりて、山中の荒増(あらまし)をしるし、[庚申山記]と云うものを書たり。 ついでに云、視ざる、聴ざる、言ざるのことは、伝教大師天台の不見、不聞、不言を以て、三諦に表して、三猿の形を作り、三猿堂を建るといえり。 そは妄見、妄聴、妄言、せざらんことを浴してなるべし、また猿と不との訓の通い、猿と申との字義通う故に、庚申の日を以て是を祀るなり。 よみ人志らず 見さる人聞かさる人にかたらばやえもいはさるの山のけしきを 』 下野国誌 第二巻 名所勝地 P125-P127 * 三谷村とは花の百名山で知られる三毳山の北方に位置する。 三角点峰の愛宕山の西側を東山道が通ってた歴史の集落である。 旧三谷村は現在は栃木県下都賀郡岩舟町となっている。 |
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栃木の山283+」は、こちら>> 2009.03.28 山部薮人 |