![]() 旧小山町の道路元標の有ったはずの交差点だが |
小山町 現在の市町村名 小山市 |
例規上の位置 国道第四号路線と府県道小山結城線との分岐点 |
調査日 現況など | 調査年月日 2007.01.21 |
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小山町の道路元標の標石を確認調査に歩いた。 本日は残念ながら標石発見に至らず。 例規上の位置は、旧小山人は結城街道入口と言っている所です。 子供の頃は稲葉郷の関戸町(セキトマチ)と言っていた。 (写真上)は現在のものですが、ここ一年だけでも丁字路から十字路のに大きく変貌しました。 ここが国道4号との交差点で何度も交差点は拡幅されて当時の姿を思い出すのに時間が掛かります。 交差点からJR陸橋、南隣の交差点
(つかひろ前)、駅前の交差点、小山市役所の庭、市博物館(間々田)なども調べましたがどこも変わっていました。 昭和30−40年頃は電話局(後のダンスホール)が交差点の所にあったのです。 交差点の所のT家の方と当時の話をしましたが標石の事は解らないとの事でした。 話題は標石に関係のない地元の話になってしまいました。 交差点には国土地理院の基本水準点がありました。(二番目の写真) JR東北本線(現宇都宮線・当時は国鉄)に架かる陸橋は、当時は今の歩道橋の所に古い鋼鉄製の橋がありました。 JR東北本線の西詰から駅方面に下るように折れて道がありました。 高崎製粉(高崎町長)の側を通っている道もありました。 また駅前交差点までには元の郵便局(現・市教育委員会など)や旧消防署、警察署(跡地は元ボーリング場=最近壊された家具店建物)などもありました。 明治期の結城街道はつかひろ洋品店の交差点からみつわ通りを経て現NTT前から現JR橋が当時の道で、その後陸橋からの道は現在の交差点の所へ直線になりました。(表紙の地図・昭和35年発行・ 交差点には電話局のマークがあります・現在のNTTの所ではない) まだまだ探す所は沢山あるのでもう少し探してみます。 どこかの空き地にでも転がっていたら幸いだが、何故か下都賀郡には現存するものがあまりにも少ない何か理由があるのだろうか、経済優先に走り文化が軽視されている地域なのだろうか。 特に例規集にも載っているということは、史の裏付けとなる大切なもののはず。 どこかの箱物行政はこの辺から始まったのだろうか、作っては適当に処分するそんなこともあるまいが下都賀郡少なすぎる残念。 【小山の歴史上の事は、】 平安時代の「平将門の乱」を鎮めた藤原秀郷から7代の子孫、正光が「小山」を名乗りその歴史が始まったとされる。 その後、小山正光の子が常陸国の志田義弘を「野木宮の合戦」勝利して、鎌倉幕府成立に道を付け貢献したのが小山氏だ。 戦国時代の後半(1600年、関が原の戦い直前の7月24日)、徳川家康率いる上杉景勝討伐軍が小山に本陣を置いていた。 石田三成、挙兵の報をきき、諸将を招集し反転し三成を討つかこのまま上杉を討伐するかの軍儀が「小山評定」である。 尾張国清洲城主の福島正則は家康に命を預けるといい掛川城主の山内一豊は、家康に城を明け渡してまでも味方するという。 これらの建議が各諸将の心を動かした。 この家康率いる東軍の結束が、9月15日の関が原の戦いに勝利にもたらし江戸幕府成立の道をつけたと言う。 この2つの歴史的な出来事のあった町が小山である。(写真中は、小山市役所前の庭にある「小山評定跡の碑」である) |
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