![]() 喜連川町の道路元標 |
喜連川町 | 例規上の位置 塩谷郡喜連川町喜連川地内 府県道鹿畑氏家線と烏山喜連川線の分岐点 現在の市町村名 さくら市 |
調査日 現況など | 調査年月日 2006.12.28 |
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喜連川は、戦国時代まで塩谷氏の支配下にあったが、その十五代惟久は、豊臣秀吉から命じられた小田原攻めに加わらず、秀吉の怒りを受けることを恐れて天正十八年(1590)家を捨てて出奔しまった。 その妻であった島子は、名門足利家の末裔であり、その血筋が絶えることを惜しんだ秀吉は、島子に三千八百石与え、その弟国明を喜連川の領主に据えた。(この時、狐川と呼ばれていた地名を喜連川と改名した。) その後、天下人となった徳川家康も、武家の名門である足利家の流れをくむ喜連川足利家(国明の次代頼氏から喜連川氏に改姓)を重視し、喜連川藩を創設したうえで四千五百石(後に五千石)に加増、さらに十万石の大名家の格式である左馬頭を名乗ることを認めた。その上、参勤交代を免除、藩主の正室も喜連川に住むことを認めた。これは、武家の名門である足利氏を優遇し主従関係ではなく、同格の客分扱いとすることで徳川氏の権威付けに利用する意図があったものだろう。 そのため、諸国の大名が参勤交代の際に喜連川を通過する際にも、この地の住民は土下座をする必要がなかったり、街道筋の住民に課されていた助郷の一部を免除されたり等、当時の街道筋の他の宿場町とは様相が異なる特殊な宿場町であった。 道路元標標石は例規上の位置であった。 排気ガスで汚れているのだろう、根元も苔むしてさり気なく街の中に溶け込んでいた。 喜連川の大正から激動の昭和の何を見ていたのだろう。 |
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