![]() 伊王野村の道路元標 |
伊王野村 | 例規上の位置 那須郡伊王野村大字伊王野地内巡査駐在所前 府県道黒羽芦野線 現在の市町村名 那須町 |
調査日 現況など | 調査年月日 2006.12.28 |
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現在の道路元標の標石は、伊王野の旧町の中の交差点「仲村屋」の店の前歩道にありました。 道路改修前は(写真下マンホールの所にあったそうです。 NTTのMH設置の時に現在地に移設したとの事でした。 仲村屋の主人談) 奥州街道(正式には奥州道中)の芦野から少し南下した所が伊王野がある。 奥州街道は大田原から芦野へは鍋掛経由である。 しかし伊王野は黒羽と芦野を結ぶ那須地方では重要な位置にある。 戦国時代那須地方を治めていたのは那須氏一族であった。 伊王野氏も一族の重鎮として活躍した、その中で那須氏と宇都宮氏との俗に言う早乙女坂の戦いで伊王野氏が那須氏の窮地を救った。 (以下はその戦いの一節である。−風雲戦国史より−) 那須資房は戦国大名として近隣の諸大名と争うことになる。 永正十七年(1520)、結城義永と岩城常隆の連合軍が那須に侵入し、山田城と縄釣台の二ケ所で、那須郡の諸将を率いて連合軍を打ち破った。 翌年には、上川井城篭城戦を演じている。 那須資房の死後、家督をめぐって家中に内紛が生じ、資房の子政資と孫高資が対陣した。のち家を継いだ高資は北条氏と意を通じたことから、天文十七年(1548)北条氏と敵対する宇都宮氏は古河公方足利晴氏と結んで、那須氏領の西橋喜連川五月女坂に攻め入った。 この戦いは、少数の那須氏が不利な状況であったが、那須方の将伊王野氏の家臣が放った矢が、見事に宇都宮尚綱を射殺したことから宇都宮軍の総崩れとなった。しかし、天文二十年、那須家の主導権を握ろうとする大田原資晴と父尚綱を討たれた宇都宮広綱は謀り事を廻らして、高資を千本城に誘い出して謀殺に成功した。 後に喜連川の五月女坂は、伊王野氏の家臣の名をとって弥五郎坂と言うようになった。 伊王野の郷をを見下ろす梁瀬山のページは、 こちら です。 |
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