『栃木の街道』 栃木県文化協会 S53.10.31発行 より抜粋
「百村宿に、 --(中略)-- この宿の光徳寺の記録によれば、会津中街道の駄賃の記載があり、会津西街道復活後しばらくの間は、これら街道の間で、荷の争奪が行われたことが記録にみられる。この会津中街道に対し、百村を経由して、会津田島地域を結ぶ間道があった。これは男鹿峠を越える道で、古老によれば、古くからあった間道だという。しかし戌辰戦争前後であった。 明治元年(1868)九月二十三日に会津方に味方していた水戸藩士、数千人が三隊にわかれ、落城を機に百村を経て水戸に帰藩したのはこの道であった。
この間道は栗生沢(福島県田島町)より男鹿峠を越え、百村に達する六里十八丁五十間で約二六キロの山道である。
戦乱も収まり、新政府が誕生し、会津も若松県になると、明治三年(1870)四月下旬より道路工事に着手し、九月上旬には一応の開通を見た。また翌年には百村地内桑沢に新駅を設けて、栗生部落より11戸を移住させ、舟石には四戸を移し、宿駅をそなえた。 明治三年九月二十八日には、若松県令四条隆平が東京よりこの道を通って若松へ赴いた。一行は五十名で百村に一泊し、田島に入っている。 明治六年(1873)には年間2,500駄より2,600駄の荷物がこの道を運送されている。しかしこの新道は融雪期に崩れるところから、明治九年には公式路としては廃道になった。」
|
『那須』 大村書店 S11.9.11発行 (黒磯図書館蔵) より抜粋
「奥那須の通路・姥坂峠の廃道」
「この地方の山中を通過する二つの道路が廃道となつてゐる。 一つは板室温泉付近から七千町歩・姥坂峠を経て栗生沢に到るものである、二つ目は中塩原から桃木峠を経、男鹿川を八五〇米あたりで渡り横川に出ず直接山王峠に到るものである。 共にその一部陸測図に間路として現されてある。 姥坂峠みちは、多分野際の関所を通れないものが通った間道だつたかと思ふが、明治時代になつても多少の交通があつたといふ。」
|
|
資料提供 地理クラブ 遠山氏 2005.08.08 |