大萱峠   百村街道
おおかやとうげ            もむらかいどう   .


『田島町史 第2巻 通史(近世)』 田島町発行 より抜粋      

第一章南山御蔵入領の成立 街道の整備と災害 
 (1)下野街道の整備 脇街道と支道
                       
 南山御蔵入領には大きな脇街道が二筋あり、一つは松川通新道(宇都宮街道)で、他は只見川・伊南川筋を通る沼田街道である
 松川通新道は、元禄八年(1695)に正式に開墾整備され、宿駅を設置して街道登録が行 なわれたのであるが、元禄以前から南山通りに替わる道筋として注目されていた。それは万治元年(1659)に山王峠が地震崩れを起こしたので大修理が必要になったとき、会津藩 内に南山通りと比較して存在が浮上し、この際整備したら如何との案が出された。結果は、この時は否定され、南山通りを補修することになったが、松川通新道の利点は若松より江 戸まで五三里一五丁半で、南山通りの五八里二八丁より五里一二丁半(約21`b)、白河 通りの六五里八丁より一一里二九丁近いことであった。その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際新田・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石上・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家となっている。
 沼田街道は若松と上州(群馬県)沼田を結ぶおよそ四〇里に及ぶ道筋であるが、沼田街道として命名されたのは明治十四年に県道指定を受けてからで、それまでは伊北街道、後街道(伊南街道と称した方が分かり易い。国道45号筋の越後街道とは別)、上州街道の三本をつなぎ合わせての総称という。(『会津の街道』所収沼田街道)
 支道の主なものは、栗生沢村より男鹿岳の肩を越えて、先述の松川通街道と百村で合わさる道で、板室の先の百村道、百村街道と言う。ただ街道らしくなったのは戌辰戦争前後の数年間で、それまでは関東へ出る近道として利用したものであろう。





『田島町史 第6巻 通史(下)』 近世史料Uより抜粋      

  丁度其の頃会津藩の武士深田豊太郎なる物白河口の戦いに負傷し、水無名主四月中頃より(室井与次右衛門) 九月まで戻りたりしが九月二十日栗生沢の名主宅に用心棒として頼み来り十一月下旬まで居た、足が固定しびっこであった、大男の着物の様な物は深田豊太郎に与えてやった、九月二十一日より地蔵様の見晴の場所に放小屋を建て五六人位づつ番兵して居た
  二十三日深田豊太郎頭に五六人いた所、須釜のスグレの横手より大人数の兵らしきもの見付け見張り一人村へ来たり報告せしかば中大騒動焼かるるとて家内道具は云うにおよばず畳まで出して人目付かざる処へ出した、一人の人夫見張りを見て湯田舟蔵は印 水なる故水戸藩なる事判明し事なきに済んだ、水戸藩にて会津藩に加勢に来り媾話になり、帰る途中山王峠を行かんとするに官軍の固め強く間道を通って行き度く来た由申述べた、同勢千人、大将は市川三左衛門にして水戸の家老ときく、三隊にわかれていた、一隊を田村隊と唱い、一隊を鼓隊と、一隊を久我隊と云って采配振りが松田平右衛門と云い、徳之助が久我隊にして隊長久我は乗馬一□くら其の他付属物を与えていった、今の時代にくらを売ったと聞く、鼓隊が湯田府太重方に宿る、米を田島より馬三頭にて買い、二十四日一日滞在二十五日出発した、村一戸一人宛にて人足に出て栃木県百村迄送った、百村一泊人足共は朝帰村した
  後で聞けば水戸城は天狗隊と云う田村隊と云うのと仲が悪い故、市川三左衛門会津へ加勢に来たりし留守に水戸城を乗取り市川三左衛門等間道を通り帰城するや戦争となりしと聞く、市川方破れ散々バラバラになりしとかや、百村まで送って行く途中水戸書生の一人病気にて歩行も出来ぬやつを□□外五人にて殺害し、衣類金は取上げ死体は其のままに捨てたと、後に田村郡守山藩の士が刀を買い、水戸藩の所有たりしことを云いあてありしと、慶応四年十月を以て御維新となり明治と改正す
  明治二年午の十一月一日守山藩の武士四人頭長関才次郎家来が吉田調山岸沼清助正木友三郎仲間一人、間道口固めとして来り、翌年四月迄名主久右衛門宅に居た、四月交代に尾津孫八頭長として来り家来馬場多忠太山本一二熊田猪松同勢三人来り、関才次郎のみ残り居たる、その当時才次郎は栗生沢より百村に通ずる道路開さくにつき清算役所より役人に任ぜられた、田島役所より大内藤平出張し四月初旬刈払いに着手し、栗生沢百村は百村地内にて切開き、賃金は男子一人玄米二升ずつにて当村は一戸一人位平均に出た、さして八月末開通した、  も当方にて作りたる百村地内柳空沢迄栗生沢人夫で作る、それより先は百村人夫作る、八月下旬若松県令四條殿同勢五十人程東京より若松へ通行さる、百村泊りの田島泊りと通過す、本かご一丁、長持一トとし乗馬一頭百村より人夫五六拾人あり、それにて荷物持ち出し栗生沢よりも人夫を峠迄出す、外田島外七ヶ村大萱峠まで名主壱人人夫引連れ出迎いたり、明治四年百村地内桑沢へ栗生沢区民十一戸丈新駅として出る、栗生沢より二里半出張したりし湯田駒吉相原伝蔵大竹兼吉、それより一里半行きて舟石へ三斗小屋より新駅とし星三右衛門出張せり、それより二里程にして牛蒡平へ百村より四戸新駅として穴沢野左衛門外三名であった、里程は栗生沢より百村まで六里半と五拾間、かくして栗生沢百村間は全く道路が出来上り、明治六年頃は一年に二千五六百駄(馬)位通行せり、然し完全----と云はれなかった、途中駅が少い為、且百村地方で修繕が届かずして九年頃は全くやぶとなりくずれるあり木のたおれるあり此所に於て全く道路は立消になった
     〔昭和三十二年五月十三日 田茂山栄 写本栗生沢 湯田一意蔵〕




    資料提供 地理クラブ 遠山氏 2005.08.08

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