桜町陣屋と二宮尊徳 NO.334

                          栃木の山283+の+部分を探査中磯山を歩いた。その近くに桜町陣屋跡、二宮神社、二宮尊徳資料館があった。ここが二宮尊徳(金次郎)の活躍した土地なのである。子供の頃小学校にあった勤勉な二宮金次郎の銅像、薪を背負い本を読む姿があった。現在の社会から消えつつある「徳」を教えられた。
 

真岡市東大島公民館の二宮金次郎像


戦後の日本人は、子供の手本とまでしていた二宮尊徳の銅像を校庭から取り払いました。それとともに、尊徳が実践し、説き広めた精神も、かえりみなくなってしまいました。
そして、半世紀たった今、わが国には長期にわたる不況、国や自治体の膨大な借金、豊かさの中で勤労の精神を忘れた若者たち、官僚の腐敗堕落等の問題が、広がっています。今日の日本人が再び二宮尊徳に学ぶべきことは多いでしょう。


桜町陣屋

二宮尊徳(金次郎)が小田原藩主・大久保忠真公から桜町の復興の命を受けたのは、文政5(1822)年のことです。尊徳はそれまでに努力して積み上げてきた田畑や家財をすべて売り払い、「一家を廃して万家を興すなり」という不退転の決意で、桜町の復興のために、文政6(1823)年に一家そろってこの地にやって来ました。以来、毎日早朝から夜遅くまで、まさに「至誠」の文字のごとく粉骨砕身で復興のために努力しました。徹底した廻村による領内の実情把握、農民たちの勤労意欲を高めるための表彰、荒地の開発、堰や堀などの治水の整備等・・・・。しかし、それは困難の連続でした。そして一部の役人や仕法に不満を持つ人々による妨害などで、復興事業が行き詰った7年目の文政12(1829)年、尊徳は成田山での21日間の断食を行いました。すると、村民は尊徳が不在であることによって、改めて桜町における尊徳の存在の大きさを知ったのです。そして、これを境にして、村民や役人たちの気持ちがひとつになり、桜町の復興は順調に進展しました。


桜町陣屋跡

四畳間

二宮尊徳の教え

「至誠・しせい」
至誠とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」という言葉のとおり、尊徳の仕法や思想、そして生き方の全てを貫いている精神です。

「勤労・きんろう」
人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。また、働くことを通して知恵をみがき、自己を向上させることができると説きました。

「分度・ぶんど」

人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが大切であり、収入に応じた一定の基準(分度)を設定し、その範囲内で生活することの必要性を説きました。

「推譲・すいじょう」

節約によって余った分は家族や子孫のために備えたり(自譲)、他人や社会のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えました。

「積小為大・せきしょうだい」

小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつくという教えです。小事をおろそかにする者に大事が果たせるわけがないと尊徳は考えました。

「一円融合・いちえんゆうごう」

全てのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという教えです。例えば、植物が育つには水・温度・土・日光・養分・炭酸ガスなどいろいろなものの徳が融けあってひとつになって育ちます。

銅像

起業之碑


万象具徳・ばんしょうぐとく

二宮尊徳は、物や人の持っている「よさ・取りえ・持ち味」のことを『徳』として、その徳をうまく使って社会に役立てていくことをを『報徳』と呼びました。
尊徳は、「あらゆるものに徳がある」と考えました。これを『万象具徳』と言います。

二宮尊徳資料館の資料による。