
現在の布坂山は草生す・背景の峰は葛老山

高木六左衛門の墓

鳶が旋回していました。

湖水右奥の白い橋の右が五十里集落

旧湯西川発電所 04.03.06撮影

湯西明神・一つ石からの尾根の立木補償マーク

建物の姿は有りませんでした。
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何度も会津西街道を通っていたが、この展望台が布坂山という名であった事は最近まで知らなかった。 また別名「腹切り山」ともいう高木六左衛門の伝説もある。 江戸時代、天和三年(1683年)の日光大地震により男鹿川を葛老山が大規模に崩落し堰き止められて五十里湖が成立した。 水は増して42年後に決壊して下流域に大きな被害を起こした。 葛老山の崩落した所が布坂山の対岸(海尻橋付近)であった。
五十里湖に掛かる海尻橋の所の突き出た突起のピークが布坂山である。 この付近は急峻な崖で以前は落石事故などもありました。 会津街道は海尻橋の所を渡り右湖岸をへばり付くように北向かっていた。 湯西川温泉へは海尻橋を直進して左湖岸を縫っていた。 現在はトンネルと大きな架橋によりほぼ直線的に北上するルートになった。
五十里湖成立により会津西街道は通行出来ず、また流域の集落は水没した。 当時この地域は会津藩で管理していた。 会津藩にとって会津西街道は江戸への重要な街道でありました。 そのためには堰き止められた所を開削して水を抜いて街道を整備する事は藩において重大事であった。 また堰き止められた自然のダムが増水による決壊による被害も心配された。
会津藩では五十里関所の支配頭の高木六左衛門に命じて、開削を湖水の切落としを図りましたが厚い岩盤に阻まれて失敗しました。 この責任をとり布坂山にて割腹自害しました。 その後この山を「腹切り山」とも読んでいるとの伝説があります。
山部は何度かこの展望台へ来ています。 40年も以前へらぶな釣り(山上湖釣り)にきました。 またその折に、また会津や新潟へ向かう度に海尻橋を渡って会津西街道を通りました。 台風や大雨の時は危険な道でした。 何度か展望台に車で上がって茶屋で休憩しました。
海尻橋を渡った所から会津街道から展望台へ上がる道があったが、現在は柵が設置されて車の通行は出来ない。 反対側へ下る道もあったがそちら側も柵が設置されていました。 布坂山の南側を巻くように通る道のさらに南側に現在は「ちびっこ広場」と駐車場がありました。 ここから現在の布坂山へ歩きました。
会津街道から舗装された道は以前通りでしたが、草が茂り長い間放置されているようです。 歩くには問題有りません5分ほどで布坂山の頂上の広場です。 広場は駐車場でしたが草が生していました。 広場に有った電柱に鳶がとまっていました、その後大きく羽ばたいて上空をくるくると回っていました。
展望は周囲の木々が生長してスッキリした展望は望めませんでした。 松の実をついばむシジュウガラが忙しく動きまわっていました。 また布坂山は五十里湖水と山々が取り囲み見守っているように思えました。
車は新しい道を走り旧会津西街道はひっそりと取り残されたようですがまだ車の通行は可能です。 大畑沢先の現在の五十里集落の所で新しい橋(五十里海渡り大橋)と合流します。
【湯西川発電所撤去】
湯西川温泉や旧栗山村の山々へ向かう途中の湯西川にあった湯西川発電所が撤去されることになりました。 発電所の所の吊り橋は高瀬山へのアプローチとして利用されていました。 この橋が残されるのか不明ですが発電所撤去工事が進んでいるとの情報がありましたので見てきました。
現在は発電所の建物は完全に無くなっていました。 重機が動きダンプに残宰を乗せていました。 川には仮道が作られ工事は終盤のようでした。
さて、吊り橋ですが解体されずに残されるように思えました。 工期は12月22日ですが、まったく手付かずでしたのでそのように思いました。
一部の県道は出来ていますが全ての道路が出来るのはいつ頃になるのでしょうか。
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