【県境歩き・日本最高所の水準点探査】
今回は、県境歩きの続きと引馬峠の水準点探索です。檜枝岐、栗山の馬坂峠を発ち台倉高山を通過し県境尾根を歩き引馬山(腕蔵)・引馬峠までのをルートである。引馬峠では日本最高所の水準点探査のためテント泊をする。 翌日は、火打石沢から荒廃した林道を歩き、黒沢、トヤス沢出合(舟岐橋、上の林道口)まで歩いた記録である。
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【山行日】 2007年 7月 28−29日 (土日) 【天 候】 晴たり曇り一時小雨夜半強風・曇り晴れ
【山 域】 栗山(日光市)、檜枝岐(福島県) 【同行者】 単独
【地 図】 1/2.5万図 国土地理院 地図(帝釈山・馬坂峠) 地図(台倉高山) 地図(引馬山・引馬峠)
【所要時間】
7/28 馬坂峠(7:40)−鹿の休み場(8:30)−三段田代(9:00)−台倉高山・2066.7m峰(10:20-10:50)
− 1895m峰手前鞍部・湿地*注(12:30)−1950m峰−1938m峰−引馬山(腕蔵)・1981.7m
(15:25-40)−引馬峠(16:10)・水準点探査・テント泊 ( *注 台倉高山からの下りに失敗1時間ロス)
7/29 水準点探査・引馬峠(4:30-6:00)−火打石沢・6mの滝(7:00)−沢中のワイヤ・林道終点
(7:33-45)−火打石沢橋(8:15)−深沢橋(8:35)−越ノ沢橋(9:30)-曲沢の対岸付近の
釣り人車の所(9:50) −林道・トヤス沢、黒沢出合の舟岐川橋・林道口(10:25)=馬坂峠(11:00)
歩行時間 7/28:8時間30分 7/29:5時間 合計:13時間30分
【参考書籍】 奥鬼怒山地・明神ヶ岳研究(橋本太郎氏著・現代旅行研究所) 1982(S57)年5月4日-5日
関東ぐるり一周山歩き(上野信弥氏著・白山書房) 1988/4/30-5/3
【関連ページ】 「高原山探訪/廃なるもの探訪」(Yoshiさん)のページは、こちら>>
県境歩きのページ、こちら>>
台倉高山(04.7.24)、こちら>> 黒岩山、物見山は、こちら>>
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新らたに整備された台倉高山への道 |
【馬坂峠 〜 台倉高山】
この日は寝坊で陽が昇ってから家を出る。檜枝岐の馬坂峠には7時半に着く。今回はテント泊であるのでザックはずっしりと重い(水5g・テントほかで14kg弱)。前回は、上野信弥さんからアドバイスを得て台倉高山までピストンした。その時は踏跡はあるものの荒れた道であった。歩行時間も簡単な行動食で軽量だったが往復共に二時間もかかった。現在の整備され馬坂峠の入口の柱には台倉高山まで2時間と書いてあった。木製の階段や木道が出来て少し味気なくなったがこれで良いのかもしれない。途中の「鹿の休み場」や「三段田代」など観光地らしくなっていた。三段田代では終わりかけのワタスゲが風に揺られていた。七月初めには檜枝岐村主催の台倉高山山開き・オサバ草まつりもあるらしい。台倉高山までは道が整備されたのでゆっくり歩けた、前回と違って疲れはなかった。
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県境尾根(台倉高山から南尾根を望む)
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【台倉高山 〜 引馬山 〜 引馬峠】
台倉高山からの下りで南西の尾根筋を下るべき所を、南斜面の急な激薮を下り始めてしまう、修正するのにヘトヘトになりました。(上の写真の真ん中を下ってしまった。) 台倉高山と隣の1895m峰の間には湿地がありと薮と相まって閉口でした。 この時の気持ちはこの先どんな薮かと想像するだけで空模様と同じく暗雲が立ち込めてきました。 ザックの重さに気も滅入りがちでした。 しかし、1895m峰を過ぎると樹林の下草はオサバ草やシダで生き返りました。 いくつかのなだらかなピークを越えると次のピークは三角点峰で引馬峠を地図で確認すると気も楽になる。
1895m1950mの鞍部では越ノ沢からの道は確認できなかった。 鹿やカモシカの獣道が付いていた。(湿地の先で鹿の鳴き声を近くで聞いたが動物はこの時だけ感じた。 この獣道?踏跡?が地図の道なのかも知れない。) 歩いたのは県境の稜線10m〜20m下がった西の福島側だ。 1950m峰を過ぎると引馬山(腕蔵)の三角点へ向って地図の破線県境をの歩く。 1/2.5万図では稜線を避けて記載された道だろう、踏跡も稜線の下を峠へ向っている。。 山部は稜線を歩いてみた。
山頂を避ける理由がわからないままに県境の破線をコメツガと倒木の急登すると栃木側に開けた山頂にでた。 三角点標石が出迎えた、後は下れば引馬峠であるとの安堵から気楽に菓子を食べる。 栃木側の遠望は南側が良好で、無砂谷の林道が眼下に見えました。 標石で振り返ると引馬山のプレートがありました。 少しうれしくなりました、さり気なく裏返すと「2006.10
SSK」の記載がありました。 SSKさんは以前枯木山で会っている。 篤志家とはSSKさんのような人だろうか。
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1895m峰と台倉高山鞍部の湿地 1950m峰への登りの薮・薄い |
昭和43年発行の地理院の地図では引馬山(腕蔵)(*1)の縁が崖になっていないが、昭和55年発行の地図では東〜南東面は崖になっている。 崖はガレではなく大岩が重なった垂直に近いものであり、奥鬼怒山地の橋本太郎さんが桧枝岐〜引馬峠〜平五郎山〜川俣を歩いた時に引馬山の東面の崖を見てホーロク平への道を確認したとある。 引馬山(腕蔵)の東面の崖は山頂から少し垣間見られるが垂直に落ちて、怖くて写真を良いアングルに収められなかったのは残念である。 さて、峠への下りでは山頂から地図の県境をなぞって引馬峠へのルートを下り、そこは登り以上の急傾斜であり、地図の道が山頂を外しているのが理解できる。 急傾斜は大岩の重なりと苔むした倒木で乗り越しに鉈でルート工作に苦労した。 しばらくで引馬峠に到着した木皮を剥がされた、二本の大木が白く薄暗い樹林を不気味な雰囲気にさせてた。
*1 引馬山の名は地形図の何処にもない、地理院の三角点の名は腕蔵だ。引馬峠の上に聳えるピークなのでだが、峠からは樹林で見られない。引馬山この名がいつからその様に呼ばれていたかは知らない。
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引馬山(腕蔵) GPS 引馬山山頂にて |
【引馬峠と水準点 1895.460m探査】
引馬峠は篤志家好みの所でYoshiさんからのBBSの言葉が言い当てている、「引馬峠は景色も花もたいして期待できないので、訪れるには単なる山好きではだめで、強い動機・あこがれが必要ですね。」の雰囲気の峠だ。 引馬峠は平たい樹林の広場で笹薮や苔むした倒木があります。 今回一人でテント泊でしたがとにかく静寂、ラジオ持参なしで風の声だけを楽しみました。 夕刻と朝は小鳥のさえずりを聞きましたが、動物の気配は感じませんでした。
水準点探査は、テントを張り夕飯前に探査に動くGPSで位置を特定する。 周辺半径10mの仮払いをしながらマークをして重複を避ける。 結局この日2時間探したが見つけられなかった。 翌日の探査の作戦を立てる、しかし標高は明確だが、位置の精度に自信が持てない。 峠の中は暗い翌日は日の出を待って明るくなって直ぐに範囲を広げるが結果は見つけられなかった。 しかし、この目で引馬峠を見て次への準備が立てられそうで再訪を誓う。
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【我が国の最高の水準点】
わが国の現在の最高と最低標高の水準点は次の通りです。
最高点:1,672,4739メートル (岐阜、野麦峠971号)
かつて日本の最高水準点は栃木、福島県境で尾瀬沼の東にある引馬峠で1895.60メートルの『二等水準点、徳24号』がありました。 現在は廃点となっておりますが、歴史の中の引馬峠の水準点はぜひ残したいものです。 水準点は高さの基準です、水準点を利用して道路を設計したり山の標高測定に利用します。
【引馬峠の存在】
『那須の男鹿山塊の端から発し尾瀬、鬼怒沼へと延々と連なる森林の山々がある。 帝釈山脈とよばれるこの山なみにかつて無人交易が行われていたという引馬峠がある。 標高1900メートルほどの、いまではすっかりさびれてしまった峠出はあるが、幾世の時代をへて、どれほどの里人たちが登ってきたのだろうか。 長い山道をたどって、やっと重い我荷を下し、かわりに他の荷を背負って下っていく静かな姿が偲ばれる。 あるいは物々交換を、または中継される荷を。 たぶん彼らたちは、野良仕事や山林で働く日常の仕事のように、平素で自然に、過酷な労働にたずさわったのだろう。
最も単純で素朴な無人交易は、人と人との信頼、さして絆を唯一のあかしとして存続させていたはずである。 この事実は小さな感動を起こさせる。』 (この文は、奥鬼怒山地・明神ヶ岳研究(橋本太郎氏著・現代旅行研究所)の「引馬峠を越えて平五郎山へ」の巻頭の書であります。 引馬峠の存在を簡潔に表しております。)
【峠の情報】
引馬峠や周辺の孫兵衛山のようすの的確な情報があります。
「高原山探訪/廃なるもの探訪」(Yoshiさん)のページは、こちら>>
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引馬峠にてテント泊 引馬峠は広いこんな感じ
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【引馬峠〜火打石沢ルートで荒廃の林道〜舟岐橋(林道)】
水準点探査が不調に終わっても気を緩ますわけにはいかない、ここから黒沢とトヤス沢出合までへのルートを作らなければならない。 昨夜テントの中で寒くてうとうとしながら検討した。 昭和43年版の1/2.5万図でルートを引馬峠から1876m峰を越えて火打石沢と深沢二又の所に下っている破線を第一候補とした。 次は火打石沢を下って昭和55年4月版の1/2.5万図にある林道に出るものを次候補とした。 水準点探査の時、引馬山(腕蔵)をトラバースしながら進むルートを見たが倒木多くとても道や道形などを見出せず、20分ほど前進するが沢歩きの第二報補にした。 火打石沢は峠からは緩やかに流れる、水量は多くなく楽に歩ける。 沢の中は歩きやすく標高線で言うと1750mまでは快調に下る。 しかし1876m峰の南面を過ぎる所からは滝や渕が出てきて高巻きを何度もさせられた。 鉈が無ければ通過出来ない所もあり、林道が現れるのをまだかまだかと地図を開いた。 大きな滝になり困ったなー、どちらを巻こうかと沢の右側は密チシマであり左は切り立った大岩だ、それも何とか通過した。 沢の中に放棄されたワイヤローブがあり、ふとその上を見ると玉石が固め積まれた土留めが見える。 もう進路は決まった林道なのだ、草木をつかんで沢から斜面を這い上がる。 林道に出た、地図実線の林道だ、立木が生え草ぼうぼうだ。 立木がこの太さだと手入れされなくなって15年以上は経っているだろうと思った、この林道は山谷両側共に崩落が各所にあり荒廃し林道とは言いがたい。
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火打石沢の上部・後方の樹林は引馬峠 火打石沢の6mの滝を高巻く
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火打石沢のワイヤが、ここの上15mが林道終点 林道を埋め尽くした崩落の砂礫 |
道が突然消え直進かカーブか迷うこともしばしばだ。 それでも薄い踏跡はチシマの密薮を思えば高速道路だろうと考えた。 踏跡は切れ切れだがある、ビニルテープの小切れが忘れた頃に出てくるのはうれしい適度なマークだ。 次々に現れるチシマのトンネル、崩落地の乗り越えそれでも前進だ。 突然のガードレールで橋上に出た、橋だと気づかなかった。 草木が橋上を覆い薮化している、地図の幅広林道のある沢分岐を渡る所の橋である。 この辺の上方の峰や沢を見ると引馬峠へのルートには相応しくないように思う。 1982(S57)年5月に橋本太郎氏が歩かれた頃は林道完成後の残雪期で林道から雪に埋まった火打石沢を歩けば楽に引馬峠へ着いたであろう。 氏は著書の中で峠からその先のルートを心配していたとしている。 当時と現在とでは変わってしまった荒廃した林道だ、この時点で引馬峠へは地図を見た限り越ノ沢ルートが穏やかに見える。
深沢橋先の林道もチシマのトンネル薮や山側の崩落した所を歩く事には火打石沢付近の林道と変りはない。 沢底から林道(踏跡)までは50m程上歩いている、崩落して道を埋め尽くされ斜面は大理石が風化し白砂のようだ。 そこには蹄(ひづめ)の形でカモシカと熊と思える足跡があった。 釣り人が捨てた爆音が出る6連発ピストルのビニル袋が落ちていた熊用心のものだろう。 越ノ沢分岐で越ノ沢橋を渡る、ここの橋上にも草木が茂っている。 越ノ沢分岐からもどこまでも薮の踏跡道だ。 曲沢(まがっさわ)が黒沢に流れ込む出合付近の崩落地を過ぎた所で開けた道に出て車を見た。 釣り人の乗用車(一般車)であるゲートはないようでありここまで入っている。 周囲は一変して林道はダートながら路面は綺麗で道の両側は刈り払いされていた。 この綺麗な道はトヤス沢、黒沢出合の林道入口(舟岐橋の少し上の所)までつづいていた。 途中にヘアピンカーブが2ヵ所あったが当然のことながら全てショートカットした。 整備された林道だったらこんなに早く歩けるのかと改めて思った。
【最短ルートは】
整備された道のある馬坂峠−台倉高山は問題なし、台倉高山の先の薮と湿地先のルートを見定めれば総合的に最短であろう。しかし、引馬峠へ行くならば歴史のルートを歩きたい、それには薮の通過やルーファンが前提だ。目的を明確にして安全にいきたいものです。
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林道を覆う立木と薮 雪にひしゃげた、越の沢橋プレート |
【登山者は親切】
ほぼ予定通りだが、ここから馬坂峠へ車を回収に行かなければならない。 峠への所要時間は車で20分である登りで距離もあり、短パン、Tシャツに着替えの貴重品を持って空身で出発だ。 到着して5分、準備をしていると下から車の近づく音が聞こえた、手を上げたら快く車に乗せて頂けた。 栃木県ナンバーの方でした、本当にありがたいご親切に感謝しています。 馬坂峠では車の主のお二人は台倉高山へ元気に出発していった。 山頂で360度の展望を楽しまれたことでしょう。
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何の花なのでしょう 銀竜草(ギンリュウソウ) |

青旗の所まで車が入っていた。 (この地図は仮の掲載です。)
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