![]() ![]() 今市町の道路元標 |
今市町 現在の市町村名 今市市 |
例規上の位置 上都賀郡今市町大字今市地内 府県道宇都宮日光線と今市若松線との分岐点 |
調査日 現況など | 調査年月日 2006.02.28 |
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日光街道と例幣使街道と会津西街道が交わる宿場町として栄えた。 道路元標は例規上の位置に設置されている。 今は歩道上だが、アーケードの柱が側にあって、ペンキが付いていた。 標石は裏面に「栃木縣」の彫り込みがある。 一般的な標石の形はカマボコ形であるが、今市の標石は先端一つに交わっているタイプである。 道路元標の立っているのは日野為商店(漬物店)の前で、創業明治元年という看板が上がっているので、標石設置以前からこの地で営業している。 今市は、古くは今村と呼ばれていたが、江戸時代に入り街道が整備されこの地が宿駅として整備されるに従い、一と六のつく日にはこの地に市が立ち近郷の住人が集まり大いににぎわったことから今市と称するようになったという。 この地は、江戸からの日光街道、中山道から分かれ朝廷よりの毎年遣わされた使者(例幣使)が通行した例幣使街道、会津よりの会津西街道が合流する交通の要衝として発展、天保十四年(1843)記録によると宿内の総人口1122人、家数236軒を数えたという。(うち本陣、脇本陣各一軒、旅籠21軒) この地には、”今市御蔵所”と呼ばれる幕府の米蔵が置かれ下野国内(現栃木県)の各所の幕府直轄地からの年貢米がここに運ばれ貯蔵されていた。ここに集められた米は”今市御詰米”と呼ばれ、東照宮など、日光神領下の役人、神官、使用人への扶持米として使用され、日光神領の運営を経済面から支えていた。よって、”今市宿相場”と呼ばれた今市での米の相場は、日光の人々だけでなく日光神領を運営する幕府の大きな関心事であったという。 今市は、その地理的重要性ゆえ幕末期に起こった戊辰戦争時においては、幕府軍、新政府軍双方の攻防戦の場となり、慶応四年(1868)四月から六月の今市攻防戦により今市宿は大きな被害を受け、江戸期の町並はほとんど焼失してしまった。よって、現在の今市の町並みには宿場町であった当時の面影はほとんど失われてしまっている。 (写真下は、追分不動尊) 日光杉並木街道のページはこちらです。 |
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