「原三角測点」米山標石 
 
 
 
写真の標石は、米山の「原三角測点」である。 (09.11.23 山部撮影)


 
  【米山 原三角測點】    (09.12.12 山部薮人)

内務省地理局は、明治十年一月十一日付で前進の内務省地理寮が改組されたものです。 また、地理寮の前進は工部省測量司で全国測量をしていました。 工部省測量司は明治四年七月二十七日発足、明治七年一月九日付けで内務省測量司となり、同年八月三十日付で内務省地理寮量地課に改組されました。

地理寮が行っていた測量は、全国測量と臨時測量の二種があり、全国測量は国土の形状や方位を測定して、国図を作成する目的でした。 米山山頂の「内務省測點」標石は、全国測量のために設置されたもので、明治九年に関八州大三角測量事業として計画され測量を始めました。 この測量は現在の一等三角測量に相当するものですが、日本三角測量進程図(明治十一年〜十五年)のような測量を進めていました。

地理寮が地理局になったのは明治十年ですが、大三角測量事業を実施している間に改組された。 明治十一年にはこの測量が関八州の範囲を超えたため、関八州の文字を削って、単に大三角測量と称することとなりました。 当時の地図では米山、弥彦山(十宝山)、松ヶ崎に測点が見えます。 現在の一等三角点が埋標されています。 内務省地理局の測点標石が見つかっているのは新潟では米山のみです。 

[志村迪吉:建設省国土地理院北陸地方測量部 越後タイムス 米山山頂の測点標石 平成四年九月二十七日]より抜粋               資料提供 : 柏崎市 霜田様 2009.12.11

 
 
原三角測点 内務省地理局 刻字面


明治十五年八月 刻字面

 
 
米山薬師堂

薬師堂から避難小屋を見て、堂の右前


 
 
当時の陸地測量部設置、現行一等三角点
 

補點か
 
  米山の測量標石に深く係わった人物に館潔彦がいる。 館潔彦は旧桑名藩の下級藩士の家に生まれた、明治以前の米山のある柏崎は桑名藩であった。 父館一之助は新潟柏崎陣屋の勤番後、桑名城内番組御同心となる潔彦は嘉永2年4月15日に生まれる。 館潔彦(幼名釘次郎)は、文久4年(1864)元服する。 明治2年頃東京に出て、明治5年10月工部省入省する。 館潔彦は旧桑名藩領であった柏崎とは浅からぬ思いがあったと考えられる。

米山の明治15年8月 内務省地理局測点の選点者であり、その後の明治25年11月10日 陸地測量部の一等三角点選点者でもある。 館潔彦がこれほどまでに米山に関わりたかっのは旧桑名藩領であったからであろうか。 内務省原三角測點が群馬県の下仁田でも確認されている白髪山(白髪岩)である。 ここも館潔彦である。 訳は分からないが偶然であろうか。

 
     
 

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