要害山 ようがいさん 187m NO.312
大坂山
おさかやま  120m NO.313
兵の物見の出城強固なり 家臣まとまる深沢の里
要害山は皆川城の出城(支城)で布袋ヶ岡城と言われています。頂上部は岩場になっています。
【山行日】 2005年 2月 20日(日) 【天 候】  曇り
【山 域】 栃木 【所在地】 栃木県下都賀郡都賀町深沢
【地 図】 国土地理院 1/2.5万図 下野大柿
      地図(大坂山) 
      地図(要害山)
【同行者】 なな
【関連ページ】 和田山 05.02.20 観音山・未定
【コースタイム】
都賀町深沢・牧場先・森田宅前−( 5分 )−大坂山−( 10分 )−建憧寺(けんどうじ)裏・尾根口−( 20分 )−要害山−( 15分 )−薬師堂−( 5分 )−森田宅前        所要時間   約 55分 (休憩・会話の時間を除く)

大坂山・民家の所が「かわらけ山」

深沢から見た要害山
【かわらけ山・都賀町深沢】
 昨日の「とちぎ花フェスタ2005inおやま」で各町の観光ガイドを頂いてきた。 昨夜見ていると都賀町に「深沢のかわらけ山」、勝道上人の城山」、華厳寺の観音山」が書かれていた。 先週粟野の帰り道近くを通ったので今日は都賀町探索に出かけた。 まず「かわらけ山」に向う。 ガイドに出ている深沢で「かわらけ山」探していると牧場があり丁寧に説明いただいた。 「かわらけ山」は国分寺、尼寺建立時にこの地で瓦を焼いた所との事であった。 現在も当時の瓦が出土があると言われる。 実際にあそこが「かわらけ山」と言われた、普通の民家で今は何本かの杉の木を残すのみでした。 平地林を良く「やま」と言っていたので音として瓦を焼いていた林の所とのようだった。

 牧場の裏には小高い山があってあの山には名前は付いていないのですかと聞くと家の裏に物見台だった大石があると案内していただく。 尾根の途中で確かに、ここは深沢の里と粟野街道の物見には良い所と思いました。 物見というとこの辺は皆川藩なのですかと聞くと、水を得たように収穫の「要害山」(皆川城の出城)の事を話された。 またその裏山は「大坂山」(お釈迦山とも言う)とも教えていただいた。 近くに屋号が向山と言う家があって向こうの山の所の家とのことで使っているとの事です。 背負篭山(しょいごやま)という所が有るとの事でした。 地元の人の間の話では山に背負い篭が忘れて来た所で場所をすばやく説明するのに使ったのが未だに使われているらしい。 このような名前が定着して山名になってくる過程が垣間見られた説明でした。

 粟野街道の和田集落の北に都賀町の水道事業の配水場のタンクのある小高い山「和田山」も紹介頂いた。 牧場の横が昔の街道で駕籠で通ったという道を歩いてまず、大坂山へ向います。
* 今回、丁寧に深沢の加永さん、森田さんに教えて頂いた。 両家とも皆川藩の家臣団との事でこの地区での旧家との事でありました。 ありがとうございます。) 

大坂山(お釈迦山)

大坂山の麓の牧場


【大坂山、両崖山】
深沢の粟野街道を建憧寺(けんどうじ)の案内に従って西に入る。 競争馬の牧場があるその上が大坂山である。 山は杉の植林地の中にシイタケのホダ木がたくさん並べてある。 仕込み中で作業中のようだが今日は人影はなかった。 細い篠竹の藪だが問題ない。 直ぐに頂上部に大木がありここがピークのようだ。 お釈迦様が山頂近くで掘り出されたので「おしゃかさまのやま」と言うロマンの言い伝えがあると山の麓の森田さんのお話であった。 北側は綺麗に刈り払いをしてあり、昔の山は皆このようだったと思い久しぶりに気持ちの良いものである。 そこから西に麓に向って下って行くと墓地の横に出る。 次の要害山はこの辺の最高峰なので、一見して分かる。 今回は地図(1/2.5万図)を持ってこなかったが、見ると東側からは沢を挟んで尾根が二つある。 南尾根は頂上部から綺麗に伸びている。 南尾根と沢、畑の間に道がありそこを進んでみる。 道の行き止りに溜池がありここから尾根に上がろうと斜面を上がると何と道がある。 この道は植林の作業道でなく、城への道のようだ。 途中に武者留まりのような所が数箇所現れ傾斜が急になると突然岩の壁が現れる。 ここが要崖山のピークのようでひと登りする西側が刈り払われた頂上に着いた。 現在大柿側から道が上がってきていると聞いていたが頂上から3本の道が確認出来た。 尾根を北に少し下ると「深沢布袋山城本丸跡」の表示板があり、側に石祠があり賽銭が沢山置いてあった。

さっき頂上に上がる時ふくらはぎに痛みがはしる、何かにぶつけたかと思える痛さである。 落石が当たったか木がばちんと跳ね返った痛さだった。 づーと痛みが続いて足を引きづりながらの下りになった。 下りはかかとで歩けは問題ないが道が平になると痛さがましてくる。 東尾根の道を先まで歩くと立派な薬師堂(坂東三十三番)があった。 石仏碑があり年号を読むと天明、文政、享○が見える。 又丸に十の印の付いた鉦がある。 これまで曇りであったので、陽射が出て来て快い雰囲気になった。 里は紅梅白梅が咲き始めて確実に春がやって来た。 古い街道という落ち葉に埋もれた道を歩いて車にもどる。

要害山山頂

本丸跡にある祠

薬師堂(坂東三十三番)・個人所有

昔のいざ鎌倉道 ? ・ 作業用道
【深沢の戦とつがの里(勝道上人)】
元亀3年末〜4年2月(1572〜3)宇都宮氏・佐竹義重連合軍 VS 皆川広照軍がここ深沢で戦がありました。 その後天正13年(1585)布袋ヶ岡城(要害山)で戦がありました。 宇都宮国綱軍 VS 柏倉兵部左衛門(皆川方)軍が再び深沢で激突です。 深沢は北から南下する時に山側を通過するには地形的に深沢は重要な所のようです。 その昔義家が東征のおり通ったのも要害山の麓のようです。 江戸時代までは戦略的に重要な所だったようです。 栃木のお城はこちらです。

ここつがの里は日光開山の祖、勝道上人が幼児期から19歳までこの地で過ごしました。 父は下野国府(栃木市)の高官で母は芳賀郡高岡(真岡市)の人で、家は当初室の八嶋(栃木市)にありました。 いつしかここ都賀の地の城山(都賀町木)に移り住みました。 勝道上人は幼名を藤糸といい誕生は奇談や伝説で彩られていますが、幼少より聡明で神仏を崇めていたといわれております。 その後厳しい修行を重ね、延歴元年(782) 48歳で男体山をきわめ日光を開山する。 55歳で当時の天皇より上野講師という国々に一人しか置かない位と「上人」の称号を賜る。 その1年後ふるさと城山に華厳寺を建立しました。 延歴八年 出井山華厳寺が建立された所は 観音山・203m(城山・都賀町木)で現在「つがの里」公園として整備開放されています。 地図はこちらです。   関連ページ 観音山は、こちらです。

 (都賀町 つが彩発見 !! より)

歩行タイム】
都賀町深沢・牧場先・森田宅前( 11:00 )−大坂山( 11:05 )−深沢の奥集落( 11:18 )−要崖山( 11:38 )−薬師堂( 12:01 )−蝶の家紋のお宅( 12:27 )−森田宅前・車( 12:34 )

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