【山行日】 2005年 2月 25日(金) |
【天 候】 曇り 寒い |
【山 域】 大田原 |
【所在地】 栃木県大田原市城山 |
【地 図】 国土地理院 1/2.5万図 大田原
地図(龍体山) |
【同行者】 単独
【関連ページ】 富士山 |
【コースタイム】
消防本部駐車場・坂下門−( 3分 )−お城山土塁−( 5分 )−旧陸羽街道−( 2分 )−大田原神社−( 10分 )−三角点標石−( 15分 )−消防本部
所要時間 35分 (休憩、散策時間を除く) |
【龍体山(お城山)】 |

本丸の土塁の雪椿 |

桜の木に囲まれた本丸跡 |
大田原市の中心に歴史的にも重要な城址があり龍城(大田原城)である。 山なのかと聞くとお城山と地元の方は言う、案内板では龍体山と書いてあった。 龍城(大田原城)の歴史についてはページ末を参照下さい。 蛇尾川が東を流れ奥州街道がお城の北を通る自然の要害の尾根に堅牢に築城されている。 標高、現在の市街地からの地上高もさほどではないが急峻な所で今は公園になっている。 本丸跡は広場になっている。 歌碑なども多数あり散策に市民に親しまれず誰かと出会う所です。 今回は前日からの雪で今までに無い景色を見せてくれました。 坂下門から二の丸、冠水門、台門跡に、ここからから堀を下に見て本丸の外周の土塁を一周しました。 木々に着雪した雪は朝日を浴びてそれはそれは美しいものでした。 たくさんある椿が見ごろで雪にマッチしていました。
一旦裏門から坂下門へ西曲輪の駐車場へ戻って再び踏み跡を使って北曲輪へそこから旧奥州街道へ出ました。 旧奥州街道の蛇尾川に架かる橋は昔もあったのであろうか、今は車の往来も多い。 昔はここに大久保の木戸があったようです。 ここから大田原神社の参道を上がる、こちら側も城の堀のように見られる所もあるので龍城と一体で有ったのだろうか。 こちら側は龍頭公園となっている。 大田原神社の鳥居の脇に「国土安穏」「天下泰平」の碑、進むと神社の由緒が書かれてあった。 神社は初め龍城の築営のおり祠を祀ったことが始まりで、何度も変遷して明治にここに祀られたようだ。 参道には常夜灯(灯篭)が並んでいる、これらも神社と共に移って来たようだ。 以前あった温泉社の彫り込みも見られる、大田原の文化財にも指定されている。 神社本殿前は広く稲荷神社など多くの社がある。 |

龍城の案内図 |

大田原神社 |
神社から三角点を見ようと高みを目指して一旦西へ出る。 お花見の頃は賑わうであろう桜の木は太く、ベンチも作られこちらも市民の憩いの場となっている。 さらに進むと市内を見渡せる墓地に出る。 神社の裏の杉林と道を隔ててお墓があり、道は一部舗装に変わる。 途中で舗装道と分かれて雪の林の中の道へ林を一周したら墓地の先に出てしまった。 いよいよ標石探しであるが地図は持たずに来たので正確には不明であるが1/2.5万図は家で見ているのでおおよそは解る。 オリエンテーリングのようなもので、何となく匂いがするでもないが標石は見つかるものである。 掘れた道の神社の山林側にあるとすれば道端であるので墓地側の高みから見渡すが見えない。 それでは墓地の最上部の笹が雪に埋もれた所だろう、ここ以外には無いような気がする。 少し探してたが見つからないので笹原を撮影して、家で地図を見て来月また来ようと戻る事にした。 ふと墓地との境のドウダンツツジの中に隠れるように、有りました白い標柱も添えて三等の標石は周りを玉石がガードしたお決まりの良い状態で鎮座です。 龍頭公園側の標石のピークは山名があるのか不明で有るので来月に来た時に聞いてみます。 |

標石 249.5m(三等三角点) |

狸の家族(三匹)が歩いていました。 |
【大田原城など】
大田原城は天文14年(1545年)大田原資清によって築城され町島水口より移ってきました。 明治4年(1871年)廃藩置県に至るまで326年間大田原氏の居城でした。 東北地方との交通の要衛の地で旧奥州街道の宿場として大変栄えました。 この地に多くの商人が東北地方への拠点としていました。(大田原神社に江州日野住の中井氏も活躍、寄進の常夜灯があります。) 明治5年(1872年)兵部省により城郭は取り壊されました。 自然要害の地に築城され戌辰の役では、会津軍と西軍により激しい攻防戦があり、坂下門を突破されました。 しかし火薬庫の爆発により落城はからくも免れたとこことです。
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