【山行日】 2005年 6月19日(日) |
【天 候】 曇り ガス発生 雨 |
【山 域】 古峰原 |
【所在地】 栃木県鹿沼市 |
【地 図】 国土地理院 1/2.5万図 男体山
地図(三枚石) 地図(古峯神社)
GPS軌跡はこちらです。 |
【 メンバー】 妻と二人で歩く |
【関連ページ】 ハガタテ平 04.02.15 地蔵岳 夕日岳 04.02.21 HP トップページもどる |
【コース・タイム】
自宅発( 7:35) = = 川上澄生美術館(10:05-20) = = 古峯園( 11:35-12:10) = = 古峯神社(12:13-13:07) = = 林道ゲート( 13:21)− − へつり地蔵( 13:28)− −古峰原峠( 13:54-40)− −天狗の庭( 14:37)− −三枚石( 14:42-55)− −三角点1377.7m( 15:02)− −古峰原峠( 15:30)− −林道ゲート( 15:59) = = 古峯神社前 = = 金売り吉次の墓(壬生)( 17:17) = = 帰宅( 17:45) |

山名板 |

三枚石付近の標石・古峰原のプレートあり |
妻のサークル行事の下見に付き合って、川上澄生美術館(鹿沼)、古峯神社へ行きました。 その後古峰原峠〜三枚石をピストンしました。 |
【古峰原・三枚石へ】
古峯神社から舗装された道を走る、以前の林道はまったく新しくなってドライブウェーとなっている。 九十九に曲がって登っていく道は途中のゲートまでと現在はなっている。(峠までゲートを開けて何台かの車が来ていた。) そのうち足尾まで通じるのであろう。 ゲートから昔の林道跡を歩く道は荒廃しているので車は通れないが、そのルートを使ってハイキング道がある。 今回ここから古峰原峠を目指した。 入口の道標は立派なものであるこのほか要所に設置してある。 道に迷うこともないので道標もいらないくらいだ。 昔の林道は川になっていて崩落している所もあるが、登山道はしっかりと踏み跡がついている。 歩き始めてすぐに「へつり地蔵」の所に着く。 巴の宿から逃げ出した修行僧がここで捕まり殺された所とか厳しい修行だったらしい。 今回はこのまま登山道を歩くのもよいが、少しショートカットしようと新しい道と側の梯子を使って歩く。 前を歩いていた年配の方と小学生のグループであったが追いついた。 峠まで後ろをついて行く。 峠で少し話をしてわれわれはそのまま三枚石に向かう。 峠からは靄の掛かった古峰ヶ原を見下ろす、ロッヂには今夜泊まるらしい方が見える。 鳥居をくぐり石畳の道を歩く、
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古峰高原入口 |

へつり地蔵 |

古峰高原 |

敷石の道 |
【下 山】 |
三枚石から帰ろうという事になって元来た道を戻る。 ガスが掛かりはじめ雲行きが怪しくなってきた。 妻の後を追うが下りになると妻の足がなかなか早足になるのがふしぎだ。 先に行ってていいよと言って三角点によることにする。 道から見ると小高く見えるので直ぐにあそこだとわかった。 標石を追っているとある場所の雰囲気というか匂いというか感じるものがある。 ここのピークは標石探しでは初級である。 白木の板にマジックで書かれた「古峰原・1377.7m」これでも充分である。 三枚石まで歩かれたら一度標石まで足を伸ばされたらと思います。
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山ツツジはこの木で終了です。 |

天狗の庭 |

裏から見た三枚石 |

レンゲツツジ |
【古峯神社(こみねじんじゃ)・古峯園】
何度も通った古峯神社に詣でた。 詣でたと言っても本殿に上がっていろいろ説明を聞いたり、間取りを見たり、歩き周りました。 御直会と食事まで確認しました。 最後には一升ビンのお神酒まで頂いてきました。 その前に古峯園も散策する。 つつじが終わり次のアジサイを待っているようで静かだった。 |

古峯園 |

古峯園 |

御直会・これを食べました。 |

数百年を経る大天狗 |
【川上澄生美術館、鹿沼の街】 |

今は収蔵庫に使われている |

黒川を挟んで工場をつないでいた |
今日の主目的は妻のサークル行事の企画確認にお供したのである。 東武の新鹿沼駅の近くに「豆大福」のお店があって、近くを通った時は寄ることにしている。 「豆大福」の店の名は覚えていない今日も寄った。 鳥居跡町交差点から斜めに入り、鹿沼の旧家並がある道を走る。 鹿沼の文化活動交流館のある睦町へ向かった。 隣にははとのマーク大型店がある地域だ。 川上澄生美術館は妻に任せて散策する。 ここは確か「帝国繊維」の工場の敷地であった所で黒川の対岸の道を良く走った。 石積みの倉庫など歴史を感じました。 次は古峯神社の確認との事で草久に向かいました。 |
【壬生・鹿沼街道沿い】
壬生の稲葉一里塚の近くに二つの史跡がある。 金売り吉次の墓(伝説)は各地にあるらしい。 吉次が実在の人なのかもはっきりしないと言われているが、松尾芭蕉に随行した曽良の日記には『壬生ヨリ楡木ヘ二リミフヨリ半道バカリ行テ吉次カ塚ノ右方二十間ハカリ畠中ニ有』とある。
鯉沼九八郎翁の碑が吉次の墓の500m位離れた所にあります。 鯉沼九八郎は壬生町下稲葉の出身で明治維新後の自由民権運動が栃木県では県南で運動が起こりました。 九八郎を中心とした急進的な民権論者はこの機に県令三島通庸をはじめ政府要人の暗殺を計画、しかし失敗投獄されました。 この事件は「加波山事件」の引き金にもなりました。 9年後出獄しその後県議会議員となり「加波山将軍」と称され県議会で活躍したと言われる翁の碑です。
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義経の後援者、吉次の墓(壬生町) |

鯉沼九八郎翁の碑 |
今週のNHKで吉次が登場していました。 京と奥州藤原の間を行き来していたようです。 |