栃木の標石


一等三角點 『晃石山)』 陸地測量部設置(国土地理院管理)

栃木県内の正確な地図作るための三角点、高さの基準である水準点、や各種標石を紹介する。 栃木には我が国の地図創世記の測量遺産があります。 測量遺産を後世に残し伝える事が重要な事と思います。 明治期に我が国の西洋式測量が始められ時に、全国に先駆けて那須基線が設けられました。 栃木県を縦断する奥州街道(陸羽街道)に、東京塩竈間高低測量の足跡が残る。 しかし、時の流れと先の震災などで破損や亡失している、保存調査のため確認した一部です。 


 「一等三角点」 国土地理院 #006666

真岡市東大島 一等三角点「磯山」

  宇都宮の八幡山公園内など県内に11点の一等三角点標石があります。 一等三角点本点は約 45km間隔、補点は約 25km間隔に選点しました。 写真は真岡市東大島字磯山にある、一等三角点「磯山」で平野部にポッカリ浮かんだ小島のような雰囲気の所です。 下記は「磯山」の点の記データ抜粋です。

「磯山」 一等三角点 補点   冠字 堀 25号
埋標:明治 26年 11月 20日
基準点コード:TR15440409201
北緯:36度24分45秒.7107  東経:140度01分18秒.2298
標高:104.76m
地形図 20万図:水戸 5万図:真岡 2.5万図:岩瀬

・ 三角点・地図・測量(国土地理院)のページは、こちら>>
 

 栃木市西山田 一等三角点「晃石山」

  栃木県内にある特別な三角点標石と言えば、一等三角点「晃石山」であろう。この三角点標石は我が国の本格的な測量始められた時に設置された標石である。 三角点の戸籍謄本に当る「点の記」を見ると選点・埋標は明治12年とある。

内務省の明治8年(1875)関八州大三角測量に続き、明治11年に全国三角点測量へ移り、本県内に於いても本格的な三角点の測量が始まりました。写真の晃石山標石は、関八州大三角測量(載頭方 形)時の標石ではなく、陸軍陸地測量部による全国三角点測量時に改埋更新されたもです。 * 関八州大三角測量埋石の載頭方錐形標石を現在捜索中である。*

現在の標石も規格外の同型では、日本一大型のもので大変貴重である。
・ 晃石山のページは、こちら>> 
 

日光市足尾 一等三角点「袈裟丸」

  国土地理院発表の栃木県内の一等三角点は、北から那須町の@「三倉山」(三本槍岳) A塩谷町「高原山」(釈迦ヶ岳) 日光市のB「男体山」 茂木のC「白山」(松倉山) 那須塩原駅近くのD「稲荷山」 さくら市・喜連川のE「早乙女」 宇都宮市のF「八幡山」 鹿沼市引田のG「羽賀場山」 佐野市・田沼のH「黒岩」(大鳥屋山) 真岡市高田のI「磯山」 栃木市のJ「晃石山」、の11点です。

写真の日光・足尾の「袈裟丸山」一等三角点は、群馬県の分類に入る。 福島県境の「三倉山」が栃木県としてカウントされている。
・ 袈裟丸山のページは、こちら>>
 
 
        那須塩原市 一等三角点「稲荷山」              宇都宮市 一等三角点「八幡山」 



 
 「二等三角点」 国土地理院

芳賀町桑窪 二等三角点「桑窪」

付近の様子は、こちら>>
  明治32年7月24日埋標された。塩谷郡高根沢町(三和酪農事務所傍)の「桑窪」二等三角点です。御料牧場の丘陵の東側の丘陵上にあります、なだらかな丘陵のピークです。標高は168.72 m。

二等三角点は隣の一等、二等三角点から約 8kmの間隔に選点されていました。 「桑窪」の周辺東隣は「刈生田」、南東に「伊許山」、南西に「西高橋」、北東に「熊田」、北西に「宝積寺」、西に「板戸」などの二等標石があります。

標石寸法は、一等が18cm角、二、三等が15cm角、四等が12cm角の花崗岩(御影石)てす。 柱石長は一、二、三等、82cm(83cmや79cmなどもあり) 四等は64cm(63cmなどもあり)、点の記より

標石の下部に盤石があります。一等は更に下方盤石と二重あります。 盤石は標石に事故が生じた時直ちに復旧するためで一等標石は特に重要だったということです。
 



 
 「三等三角点」 国土地理院
 
大田原市南方 三等三角点「取上」
  「取上」は茨城県の最高峰八溝山から南に続く県境尾根にある。確認ルートは黒羽田町、雲巌寺から武茂川を北上して四斗蒔集落から桧沢を北上し桧沢源流部から「取上」に到達した。途中は林道があるがゲートがあり車は使えない歩く事になる。八溝山系は500mから700m前後の峰々が複雑に連なっているある意味深い所である。

この地域は広葉樹の自然林と桧や杉の植林地で、北に八溝山を望み、南に花瓶山がある。 しかし歩かれる人は少ない。

地図を作るための三角点の選点、埋標、測量と何度も足を運んだのであろう、明治の測量人の苦労がこの標石を見てとれる。

・ 「取上」三角点の地形図は、こちら>>
 



 「四等三角点」 国土地理院

矢板市乙畑 四等三角点「乙畑」
  この四等三角点金属標は見納めです。国道四号パイパス工事によりこの三角点は施工ルート上にあります。
この三角点を訪問したのは2008.05.11地形図から薮山の中腹に三角点はあり確認向かい方向を確かめると、その方角は工事中であった山腹を切土中であったが運良く休日で作業を休止していました。 工事現場を登ると、三角点の所だけ2m四方が手付かずに残してありました。 余命短い三角点金属標です、ご苦労さまでした。 2009.04.30付近を通過したが、道路は完成し三角点は撤去されていました。

乙畑四等三角点 K国交 1(Kとは、外注で設置した三角点)
5539-07-9601 矢板市大字乙畑字大登山  標高 199.37 m

・ この「乙畑」三角点の地形図は、こちら>>
 



 
 「二等多角点」 国土地理院

大田原市南金丸 二等多角点 金属標
  この二等多角点は、金属プレートがコンクリートの丸柱に埋込まれたタイプのものです。 四等三角点の金属標などと同じタイプである。

多角点測量は一時的で終わったので元々設置数が少ない上に、設置場所も都市部が多く道路改修などで撤去され貴重品になってきました。 栃木県壬生町では一ヶ所は撤去され、あと一ヶ所は舗装道路に埋まりかろうじて保護プレートのみ確認出来る。 写真の「二等多角点金属標」は大田原市南金丸の「二等多角点18932」です、大田原市では数ヶ所の設置を確認しています。 大田原市役所屋上にも金属プレートがコンクリートで固められています。 市役所庁舎前の植込に四等標石が設置されていますので多角点は役目を終えているようです。

* 多角点測量を始めた時期がありましたが、その後の測量技術の進歩により、多角点測量はされなくなりました。
・ 大田原周辺の三角点、多角点のページは、こちら>>
 



 
 「山林局の三角点」(主三角点)

半月山

 


 

社山




 「一等水準点」 国土地理院
   

 


 「天測點」 星を測って位置を定める

元祠のあった所にある、近傍に△一等『八幡山』
 

この天測点は天文測量を実施ため観測機器の置台である。四角柱が一般的であるが、全国には八角柱などもあります。 天文測量とは、三角測量で求められた位置座標を補正するためのものです。昭和29年から5年の間に天測点を利用した天文測量が一等三角点のすぐそばで実施されています。全国で48ヶ所で設置・観測がなされましたが、その後は機器の軽量化により天測点(機器置台)を設置することはなくなりました。
また、天測点の数km以上離れた場所の真北や真南に、測量機材を正確な方位に設置するため子午線標という目印の石柱も設置されています。測量は夜間に星を測るので子午線標の上に灯火を置いて方向を定めました。 現在は個々の天文測量そのものも必要なくなりました。

子午線とは、十二支の子は北、午は南を意味しているので子午の線上にあるので子午線(南北線)といいます。

・ 栃木県では宇都宮市八幡山の一等三角点の所に天測点があります。 八幡山の天測点はコンクリート本体、「第十六号 天測点 地理調査所」プレートも状態良く現存している。

 
 
     プレート 『天測点 第一六号 地理調査所』            450-650-1180 上面に+刻印の金属標



 「几号水準点」 東京、塩竃間の水準測量標石

 大田原市 『市野澤村界標傍新設石標』 標石



那須町 『寄居村両國界標石崖』 彫刻


 

内務省では1876年(明治9)頃から高低測量(水準測量)を開始しました。この測量で用いられた標石が各地に残存しています。

几号水準点標石の側面に『不』が刻字されています。 「几帳面」の「几」で「き」と読みます。広辞苑によれば几は机の意味があります。この標石に彫られた「不」刻字記号が三脚のついた机(測量平板)に似ており、こう呼ぶのかもしれません。高低几号、几号高低標または漢字の「不」に似ているので不号水準点とも言われています。いずれにしても明治初期に内務省(内務卿:大久保利通)が地図つくりを試みていた当時の水準点測量標石で独立した標石のほかに建物、鳥居などの永久構築物に「不」刻印された場合もあります。

東京、塩竃間高低水準測量(一等綱紀高低測量)は1876年(明治9)8月に開始され翌年8月に終了しましたが当時、石巻に開港の要望があり近くの塩竃港の海面高さを東京湾と比較するためにも行なったといわれます。東京と塩竃の両方から水準測量を実施し栃木県太田原で整合差2.6尺の結果を得て、これを測量誤差として配分しました。東京(霊岸島)と塩竃の海面標高のちがいを無視して算出したようです。[出典:日本の測量史(旧三角点探訪) 高低測量・几号水準点 上西勝也氏 ]


本県の几号水準点は下都賀郡野木町〜那須郡那須町まで旧奥州街道に沿って設置され多数が残っている。標石タイプ以外に石碑、石垣などに几号「不」が刻字されている。(大田原市金燈籠台座など)

 
 
      野木町 『七五三引稲荷社華表』 彫刻             那須町 『横岡村字峯岸地内牛石』 彫刻
 



 「二等水準点 」  徳号水準路線 県境引馬峠 今市市瀬尾〜会津南郷村 

二等水準點


徳二四号

 

日本最高所水準點の野麦峠にある水準點は国道上にあり積雪期でなければ容易に見ることができます。かつては野麦峠よりも高い標高の水準点がありました。福島、栃木の県境で尾瀬沼の東にある引馬(ひきま)峠には二等水準点「徳24号」、1895.460メートルがあり、いまは廃点になっていますが2007年(平成19)8月栃木県在住の中村宏さんによって残存が確認されました。上面に球分体がなく刻字は「二等水準點」と縦書き一行で非常に珍しいものです。当時さらに高い水準点があったかもしれません。

同種の標石は引馬峠と同じ水準路線で2、3見つけれれているほか国土地理院本院屋外にも撤去品ですが1基「福24号」(元位置:群馬縣利根郡川場村川場湯原 1206.3メートル)が展示されています。[陸地測量部:三角及水準測量成果摘要 第十一巻 1917 p202][中村宏:日本最高所の水準点 引馬峠水準点「徳24号]発見 かわら版 岳人 724 2007.10 中日新聞東京本社 p187]  [出典:三角点探訪 上巻 水準測量と水準点 わが国最高所・最低所の水準点 上西勝也氏 ]

徳号水準路線は今市市瀬尾(1等水準点 交4102号)−大笹−上栗山−川俣温泉−引馬峠−福島県檜枝岐村−南郷村(1等水準点 6707号)間の水準測量をした路線である。

このほかに「徳8号」「徳12号」「徳17号」標石を確認した。同水準路線には現在道はない、奥鬼怒川俣温泉から平五郎山を通過し原生林の尾根から県境へのルートである。 福島県側も檜枝岐村へは尾根から沢筋を通るものであった。

・ 徳号水準路線、引馬峠の徳24号水準点のページは、こちら>>

 



 
 「宮内省の界標」 奥日光    日光市 (明治の宮内省の標石)

半月山の尾根



男体山の山腹
  御料局の境界標石は「界標」とよばれ附属標として「探求標」と「指導標」が1899年(明治32)の御料地境界踏査規程(御料局長達第六五二二號)に定められており「宮」の記号が刻印されています。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びており当時の宮内省を表しています。境界測量によって設けられた界標は当初は標石にかえ木柱(木標)が多く使用されたようですが1914年(大正3)以降は界標20点ごとに3点の標石を用い、さらに重要な境界は全部、標石としました。 [出典:三角点探訪 下巻 明治以降の測量 森林測量 上西勝也氏 ]

本県では、明治期の御料林地の境界に見られる。主だった所は奥日光、塩原、那須、宇都宮、芳賀(小規模な土地が点在、井頭公園など)、佐野(唐沢山周辺)に見られる。

奥日光は、中禅寺湖を取り巻く広大な地域で、華厳の滝から半月山、三俣山、群馬県境を北上、温泉岳から於呂倶羅山、太郎山、男体山・七曲付近から男体山麓1800m南下し二荒山神社、西六番地で中禅寺湖の範囲である。
・ 奥日光御料地のページは、こちら>>

塩原の旧御料林は1891年(明治24)に発足し「塩原第二御料地」が正式名称で地元では「紅葉山御料地」と呼ばれていました。小規模ですが旧御用邸などが近傍にあり関係当局に重視されてきました。現在のビジターセンターの裏山には御料局三角点、御料局測点などとともに界標(境界標識)がいたるところにあります。

「御料局境界点」と刻字のある標石ははじめて見ました。御料林の南端で国土地理院の三等三角点「塩ノ湯」5539−36−4701の南のピークで「御料局測点」の傍にあります。一辺12.5、地上高さ18センチメートルで多孔質の岩石が加工された標石でした。北面は「御料局境界点」、南面には「五八号」の刻字が見られました。

ビジターセンターからつづく遊歩道入口近くと鹿股川(かのまたがわ)にかかる仙人岩吊橋には自然石に×印がある界標が見られました。森林管理署では「固着岩石」と呼ばれています。赤く塗装されているのは現在も国有林の境界標石としてつかわれているからです。
[出典:林野庁塩那森林管理署:塩原御料林史 2004 p16]

・ 塩原御料地のページは、こちら>>    

 



 
 「宮内省の界標」 野州原    日光市



 「宮内省の界標」 塩原  那須塩原市



 「宮内省の界標」 唐沢山  佐野市



 「宮内省の界標」 井頭公園  真岡市



 「宮内省の御料局三角點」  明治の宮内省の標石

 那須塩原市下塩原 前山



日光市中禅寺湖 古薙



佐野市富士町 唐沢山城跡

 

かつて幕府の領地は御料地、皇室の領地は禁裏御料所などと呼ばれていましたが1885年(明治18)宮内省に皇室の所有地を管理する御料局がおかれ皇室の領地は御料地と公称され1889年(明治22)からは官林の一部が御料林として編入されることになりました。御料地には皇宮など皇室が直接所要する第一類御料地と収益事業用の第二類御料地があり御料林は後者に属します。

御料林の大部分は1889〜90年(明治22、23)に官林を移管されたものでしたが、境界や面積が不正確であったため御料地の事業計画に先立ち境界を査定し測量により面積の確定を行いました。初期の測量は困難を極め測量作業に従事中、絶壁から墜落死亡された殉職者も少なくありません。[農林大臣官房総務課:農林行政史 第五巻下 農林協会 1963 p1179][帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 p231]

御料地は近傍にある陸地測量部の一、二等三角点を基準とした三角測量により境界測量の基点を設定することが多かったのですが御料地内に三等三角点が既存の場合は、その成果(経緯度)と距離によって基点を定めました。御料局の標石は1894年(明治27)に定められた御料地測量規程(御料局長達第一二一七號)で寸法、形状が決まっています。三角点は一辺が12〜15センチメートル、高さ約75センチメートルの角柱で上面は隅切り、×の刻印があり5分の4を地下に埋めます。標石にかえ地中標や自然石を使用する場合もありました。

「本點」(三等)のほかに「副點」(四等)があり標石の場合「御料局三角點」の刻字があります。三角点が不足する場合には「補点」を設けました。また三角測量によらず多角測量による「細形測量」の場合は「御料局測點」の刻字があります。御料局三角点には規程で定まっていないケースも多く「本點」には二等もあり東北地方では見つかっています。また刻字も表に「御料局」裏に「三角點」とあるものや字体が異なるもの、上面の×印が+印などあります。[御料局:御料地測量規程 第一二一七號 1894 大阪市立中央図書館蔵]
[出典:三角点探訪 下巻 明治以降の測量 森林測量 上西勝也氏 ]

・ 奥日光の御料局三角点のページは、こちら>>

 



 
     
   
 
 「海軍の界標」 海軍用地  那須塩原市下塩原前山

 那須塩原市下塩原 県医師会病院境界
  「海軍用地」と刻字された界標が塩原にある。 その名の通り海軍敷地との境界に設置したものである。 港湾など海軍施設がある場所には多数の界標が、本県には海はない。 「海軍用地」界標があるのは栃木県医師会病院の周囲にあった。

同所には海軍省傷痍軍人塩原温泉療養所が設置され、戦後は厚生省国立塩原温泉病院となり、現在は栃木県医師会塩原温泉病院である。 海軍省の療養所が設置時この界標「海軍用地」も設置されたと思われる。
明治期、塩原御用邸の景観用として前山尾根は御料林となっていた。

・ 「海軍用地」標石は、こちら>>
 



 
 「陸軍の界標」陸軍用地  宇都宮市 鶴田沼緑地

 宇都宮市鶴田 鶴田沼緑地
  「陸軍用地」と刻字された標石は界標である。 その刻字名の通り陸軍敷地との境界に設置したものである。 戦時中栃木県には勇猛果敢な攻めの宇都宮14師団がありました。 師団本部は旧国本村(現国立栃木病院)にありました。 鶴田沼緑地とJRA敷地周辺にも「陸軍用地」界標が見られる。 陸軍宇都宮師団があったので他にも界標が残っているものがあると思われる。
 



 
 「旧庚申山参道丁石」(丁石、丁目石、丁標石)  日光市足尾町

  百十四丁目          花柳壽輔 
  足尾町遠下の磐裂神社からの参道(古道)には、丁石が江戸講中の寄進者によって設置され現在にも当時の丁石を見ることが出来る。 一ノ鳥居から庚申山・猿田彦神社までは現在の登山道と概ね同じ道筋ですので見ることが出来ます。 丁石の起点磐裂神社「一丁目」からの山越え道や庚申川の河原道は荒廃し丁石は一部しか確認出来ず探索中となっています。

明治中期には、庚申山・猿田彦神社において関東地区の青年會会議なども開催されたとあるので道も整備されたと考えられる。 今回は江戸中後期の(文久四亥年)丁石が設置された当時の参道(古道)の解明にある。
丁石「百十四丁目」寄進者は花柳流創始者「花柳壽輔」の刻字あり

・ 庚申山の丁石の詳しいページは、こちら>>
 



 
 「壬生藩領地の境界標」傍示杭(石標)  壬生町

 壬生町 白川領傍示杭「従是南 壬生領」
  壬生領傍示杭(石標)は、江戸時代に領地の境界の標として立てらたものです。天保十四年(1843)幕府でまとめた「壬生通富村大概帳」によると壬生藩の領地境に立てられていたことが記されている。

写真は家中村(現都賀町家中)のもので、他に上稲葉村、七つ石村、羽生田村(壬生町)と大塚村(栃木市)、亀和田村、磯村、楡木宿(鹿沼市)にも有った。
A 石標の刻字  正面         「従是南 壬生領」
  (写真手前)   左右両側面共に 「下野国 都賀郡 家中村」
       寸法  1800-235-235
B 石標の刻字  正面 / 側面の二面 「従是北 壬生領」
  (写真 奥)   寸法  1730-230-230

現在の設置場所・資料  下都賀郡壬生町 歴史民族資料館  
 



 
 「下野と白川藩領地の境界標」傍示杭(国境)    那須郡那須町・福島県白河市の追分の明神 県境の峠

那須町 白川領傍示杭「従是北 白川領」
  下野国を通る東山道の北の端がこの追分の明神峠である。この峠より北は白川領となる。峠には写真の石標が立っている。壬生藩のものと同じで設置は江戸時代のものと思われる。

この峠は東山道の関東と東北との境ので、古くは延暦10年(791年)坂上田村麿が征夷の途次通った。 その時勧請した住吉玉津島神社(追分の明神)がある。
  石標の刻字  ・正面 「従是北 白川領」
  石標の寸法

現在の設置場所・資料  追分の明神(境の明神) 
 



  
 
 「青年団の道標」   高根沢町 御料牧場内 

高根沢町 御料牧場内の道標
  明治期に始まった青年団活動は当時の内務省の指導のもと全国に広まっていきました。活動の中に映画会や道路普請、道標設置がありました。道標設置は地元の為でなく、他の地域の方への奉仕の意味もあり栃木県内にも多数設置されました。 特に明治政府の影響の強い地域は青年団活動が活発で設置数も多くあります。(内務省の出先機関のあった岩舟町には辻々に見られます。)

この立派な道標は、高根沢町の御料牧場内にあります。道標付近は牧場が出来る前は旧道が交差しておりました。現在も絵的に良い場所にありますが、御料牧場内なので立ち入りにはご注意を。(ご静養中は無理です。)

「北 寶積寺氏家道」「東 簗瀬粟ヶ瀬道」「南 高根澤真岡道」「西 板戸宇都宮道」西面には設置者名「御大典記念 西根青年○○會」の刻字。近くに青面金剛像などの石碑があります。 地形図は、こちら>>
 



  
 
 「石仏に刻まれた道標」江戸期    
   


 
 



 「道路元標・里程標」里程の刻字あり  芳賀郡茂木町 旧逆川村役場前

 
 


 



 
 「里程標」  那須郡那須町芦野 芦野郵便局前
   


 



 
 「那須基線・南点」  黎明期の基線測量
 
大田原市実取 那須基線南点
 


 



  
 
 「第一區土木監督署の基準点」  明治期の内務省 足利市西宮 織姫神社石段傍

織姫神社 「第一區土木監督署 No.11」
 緯度経度  36 20 18.1 / 139 27 40.7
 寸 法 150×150   地上高 270
  足尾鉱毒事件や渡良瀬川、思川治水をめぐる地域対立である。赤麻遊水地の成立時に、内務省第一區土木監督署の鉱毒調査会とは、足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)のことである。、この経緯について、内務省は「当時石黒第一区土木監督署長ヲシテ其ノ計画ヲ立テシメ
シコトアリ。然ルニ其結果工費金壱千弐百万円ノ巨額ヲ要スルヲ以テ遂ニ其施工ヲ見ルニ至ラス」と述べている。具体的な計画は分からないが、その巨大工事説からして当時の渡良瀬川河道の拡幅が中心だったと思われる。

明治34年3月、茨城県知事宛に「思川放水路開鑿反対請願書」を提出した。これによると、今日の事業決定以前に栃木県は内務省に許可の働きかけを行っていたが、これに茨城県が必死になって反対してきたこと、それにも関わらず栃木県が事業を推進し、内務省土木監督署も実施調査を修了した。 その時の標石であると思われる。
この標石の近くには「栃木縣」水準点もある。また足利市岩井山にも「第一區土木監督署 No.6」と「栃木縣 No.19」水準点がある。

出典:内務省東京土木出張所『渡良瀬川改修工事概要』1925年
 



  
 
 「栃木縣の水準点」( No.19 水準点)  足利市岩井 岩井山城跡(勧農城跡)

 ・岩井山 「栃木縣 No.19」 水準点
 緯度経度 36 19 20.4 / 139 27 36.1
寸 法 160×160   地上高 250
 
  栃木縣・水準点は岩井山のの最高所にある。(岩井山は渡良瀬川の中に浮かんだ島のような所であり赤城神社の社がある) 赤城神社裏のピークには水準点 「栃木縣 No.19」、少し離れた笹道の中に「第一區土木監督署 No.6」がある。この標石の組み合わせは織姫神社と同じである。

他に、利根川流域にも第一區土木監督署の刻字標石がある。

・ 織姫神社の水準点
   緯度経度  36 20 17.1 / 139 26 40.3
   寸 法 160×160  地上高 500
・ 岩井山「第一區土木監督署 No.6」
   緯度経度 36 19 21.9 / 139 27 35.5
   寸 法 150×150  地上高 390
 



  
 
 「旧電電公社のケーブル埋設標」昭和40年代  小山市喜沢 小山ゴルフ場内

小山市喜沢
  電話交換局間をつなぐ同軸ケーブルの埋設標である。 県道壬生小山線(県道18号線)に沿って埋設されていたケーブルの目印である。 ケーブルのある旧県道は付け替られ埋設標石の今はゴルフコース内にある。 当時の電々公社栃木通信部 「市外重要ケーブルルート図」によると、ケーブルは小山〜宇都宮間のケーブルで 種別 6C COX 管路 11.5 直埋 22.9とある。

このケーブルは拠点局間をつなぐ同軸ケーブルでPCM方式で通信していた。 現在の局間は電電公社からNTTに変わる頃に光ケーブルに変わった、この標石に刻字してある同軸は現在は使われていない。

標石は、花崗岩に刻字 「同軸 N65」「昭 41.6」「○」マーク、上面に「⇒」
現在も県内外の道路沿いに埋設標が多数残置され、道端に転がっているものを見かける。 当時の管路は他のケーブルで利用しているものもある。 NTTが電々公社当時は電々マークは地図記号にもなっていた。地形図にも局の位置が記載されていた、民営化に伴い記号は廃止、地形図からも消えた。
 



  
 
 「旧電電公社の界標」  現:   
 「NTT東日本(株)の界標」  現:たいらや小山本郷店との境界
 「KDDIのケーブル埋設標」  現:神鳥谷カントリーゴルフ場内
 「旧専売公社の界標」  現:小山たばこ研究所境界
 「日本たばこ産業(株)の界標」
 「工部省の界標」 花崗岩製  現:両毛線沿線用地杭
 「JR東日の界標」 コンクリート製   現:宇都宮線沿線用地杭
栃木の山283+ は、こちら>>