庚申山 丁石 コレクション X
   
 
「百十四丁目」丁石、寄進者名 「花柳壽輔」 舞踏家 花柳流創始者の刻字あり


    



【百五丁目】

調査年月日 2008.08.16
所在地 日光市足尾町   仁王門先
緯経度 E36 39 54.6  N139 22 22.9
設置者 江戸講中寄進者

寸法   520+200-170-140
標石の形状 加工石
設置年月 文久三亥年四月 (1863年)

刻字
正面 百十一丁目
右面 神田仲町  柏屋茂兵蔵
左面 文久三亥年四月
裏面 荒仕上げ 刻字なし

刻字面の状態 刻字面は彫り下げられている



【百六丁目】

調査年月日 2008.08.16 / 09.06.21
所在地 日光市足尾町  蛙岩手前
緯経度 E36 39 56.9  N139 22 20.1
設置者 江戸講中寄進者

寸法   500+260-160-150
標石の形状 加工石
設置年月 文久三亥年四月 (1863年)

刻字
正面 百六丁目
右面 ○○町  益田屋兵衛
左面 文久三亥年四月
裏面 荒仕上げ 刻字なし

刻字面の状態 刻字面は彫り下げられている
 * 百六丁目丁石は三つに折れている。 この写真は付近を探索し載せて撮影したものである。 



【百十一丁目】

百十一丁目の丁石を過ぎると猿田彦神社(跡)まではあと三丁( 309 b)である。 この辺はなだらかな参道で当時は神社社殿は参道沿いの桧の葉に隠れて見えないのだろうか、しかしここまで来れば当時の猿田彦神社の参詣者の多さからはすぐそこにあるのは感じられたであろう。 百十一丁目の丁石は傾いているが損傷もなく当時から参詣者や登山者を見続けている。

調査年月日 2008.06.22 / 2008.08.16
所在地 日光市足尾町
緯経度 E36 40 10.0  N139 22 09.2
設置者 江戸講中寄進者

寸法   570-160-140
標石の形状 加工石
設置年月 文久三亥年四月 (1863年)

刻字
正面 百十一丁目
右面 橋本町一丁目  山田屋善蔵
左面 文久三亥年四月
裏面 荒仕上げ 刻字なし

刻字面の状態 刻字面は彫り下げられている



【百十二丁目】

猿田彦神社の手前の笹原に百十二丁目の丁石が保存状態よく参道沿いにある。

寄進者伊勢屋忠兵衛について、丁石が設置された頃(文久三年)当時、曲亭馬琴による長編小説「南総里見ハ犬伝」が発表された。 近世小説屈指の傑作であるが長編作であるが故に多くの抄録や影響作が生まれた。 その中に切附本『英名ハ犬伝』」がある、この版元が伊勢屋忠兵衛である。 (『英名ハ犬伝』 八編 鈍亭魯文作 直政画 安政二〜三年)

 
調査年月日 2008.06.22 / 2008.08.16
所在地 日光市足尾町
緯経度 E36 40 07.3  N139 22 16.9
設置者 江戸講中寄進者

寸法   730-170-145
標石の形状 加工石
設置年月 文久三亥年四月 (1863年)

刻字
正面 百十二丁目
右面 渋谷向町一丁目 伊勢屋忠兵衛
左面 文久三亥年四月
裏面 荒仕上げ 刻字なし

刻字面の状態 刻字面は彫り下げられている 

 * 「百十二丁目」丁石の状態は良い、背後はミヤコ笹原である。 2009.06.21



【百十四丁目】

猿田彦神社入口にある「百十四丁目」丁石である。 石垣に寄りかかって丁石は苔むしている。 起点の磐裂神社(一丁目)から終点の猿田彦神社(百十四丁目)まで参道に設置されている最終丁石である。 庚申山信仰が隆盛だった江戸後期の設置で約150年が経つ。 丁石は参詣者への里程標であり、利便の意で設置されたものであろう。 庚申山登山時の里程標として現在も利用可能である。 この丁石をたどる道は庚申山参詣を思いながら歩ける歴史の道である。

右面刻字の寄進者名の花柳壽輔 文政4年(1821)-明治36年(1909)は、舞踊家・振付師で 花柳流創始者である。
 * 花柳壽輔の刻字は丁石右側面にあり、写真はこのページのトップにあります。

* 2008.08.16の探索で銅山根利出張所寄進の剣の前で、丁石の基部を見つけた。 「百十四丁目」丁石と10メートルと至近な所なのでその基部と思われるが詳細確認は後日とした。 (寄進の剣の前の丁石基部の寸法 520-170-150)

 

調査年月日 2008.06.22 / 2008.08.16
所在地 日光市足尾町  / 2009.06.21
緯経度 E36 40 14.0  N139 22 17.1
設置者 江戸講中寄進者

寸法   535-165-150 (下部欠損)
標石の形状 加工石
設置年月 文久三亥年四月 (1863年)

刻字
正面 百十四丁目
右面 浅草田町  二○ 花柳壽輔
左面 文久三亥年四月
裏面 荒仕上げ 刻字なし

刻字面の状態 刻字面は彫り下げられている

刻字を清掃して撮影 09.06.21

元の場所に設置 石垣は猿田彦神社跡

 * 刻字にある浅草田町とは、江戸時代の御府内備考、嘉永図に浅草田町の記載が見られる。 浅草田町とはどのような所だったのか、浅草花街に当時の町名が見られる。

 * 参考文献 『赤線跡を歩く2』 木村聡 自由国民社

 江戸時代より、浅草寺の周りには参詣客を相手にした飲食店街が集まり賑わっていた。浅草寺門前の田楽茶屋の酒客を相手に生まれたのが田楽芸者とも呼ばれた「広小路芸者」である。また、新吉原遊郭大門外の浅草田町の山谷堀に面する編笠茶屋や船宿を出先とした「堀の芸者」が生まれた。さらに、天保の改革で江戸市中にあった歌舞伎の三座、人形芝居の二座が移転して芝居町が形成された猿若町(現在の浅草六丁目)には、芝居茶屋を出先とした芝居芸者(櫓下芸者)が誕生した。これら三か所の花柳界を背景に、浅草は江戸府内随一の歓楽街として発展した。

 明治18年(1885年)の浅草寺境内整備を契機に広小路、山谷堀、猿若町の芸妓の一部が集まり、公園内の飲食屋を出先にした、現在の浅草芸妓のもととな公園芸者が生まれた。やがて、花街は公園内から浅草寺北側の現在の位置に移り、大正末期には料理店49軒、待合茶屋250軒、芸妓1060名と東京随一の規模を誇るまで発展したが、関東大震災と戦災で壊滅状態となってしまった。しかし、戦後も花街として復興し、今でも花街としての活気と風情を感じることのできる街となっている。


 
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