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【足尾の歴史】
足尾銅山は日本の産業、鉱山史や公害、環境問題の原点として広く知られている。 銅山開発は明治に入り急速に進んだ、それ以前の足尾の歴史を磐裂神社、庚申山信仰、庚申講、石碑などを中心に歴史年表にした。 BC5500頃、唐風呂付近に縄文人の生活跡があり、天平の頃に日光男体山開山の祖、勝道上人が庚申山で行脚したと言われている。
庚申山・足尾の歴史(年表) 銅山・庚申山信仰・丁石は、こちら>> 庚申山の関係人物・佐野一信について、こちら>>
庚申山の関係書籍「下野国誌」について、こちら>>
【庚申山の自然】
足尾の西方山地にある庚申山は、最高峰皇海山(2143m) - 1.8Km - 鋸山(2050m) - 2.7Km - 庚申山(1901m)の尾根を連らねる山々の1峰である。奇岩怪岩の山容に関東の耶馬渓と言われている。なぜあれほどの断崖が出来るのかは分かっていない。 日光火山群と赤城火山の中間に位置し、石英斑岩を基盤に山頂付近の火口より庚申溶岩(第4紀旧期火山噴出物)の紫蘇輝石安山岩、凝灰角礫岩など固く侵食に強い岩石が噴出し、トロイド状の岩峰を形成している。
庚申山で初めて発見されたものに、庚申草(コウシンソウ)がある。 被子植物類ムシトリスミレ属の固有種、タヌキモ科に属する多年草食虫植物で、世界中でも庚申山と男体山、女峰山、袈裟丸連峰の一部にだけに見られる珍種である。(群生地などについては保護の為発表は控える。) 明治23年(1890)8月9日、三好学博士が庚申山に群生しているところを発見し、山名をとって名付けられた、国の特別天然記念物である。 下界では生育できない採取はご法度である。
庚申草(コウシンソウ)は、こちら>>
【庚申山信仰 ・
庚申講】
庚申塔、青面金剛像石碑、三猿碑などを各地に見ることが出来る。 庚申信仰の隆盛期である江戸時代中期・後期に、足尾の庚申山・猿田彦神社は庚申講中の参拝で賑わったと言われる。 古道を通り明治前期までは庚申山・猿田彦神社へは足尾の集落から歩くと丸一日掛かったと考えられる。 当時の庚申山・猿田彦神社の宿坊には多数の参拝者が宿泊していたとの記録もあり、庚申山・猿田彦神社詣の参拝者が絶える事は無かったとも言う。 現在この古道(参道)を通って庚申山・猿田彦神社へ歩く人の姿は見られない。
庚申山信仰・猿田彦、青面金剛(ショウメンコンゴウ)、庚申講などは、こちら>>
【曲亭馬琴「南総里見八犬伝」にみる庚申山】
曲亭馬琴(滝沢馬琴 ・1767-1848)が文化11年(1814)から天保13年(1842)までの長期にわたって執筆たれた刊行読本「南総里見八犬伝」である。 善悪いりみだれて様々なエピソードが繰り広げられる。 全98巻106冊に及ぶ我が国最大の長編伝奇小説として知られている。 歌舞伎の題材として関連する浮世絵なども沢山製作されている。 世代を問わず人々を夢中にさせた八犬伝の世界は、江戸時代後期の文化を集約したものと言ってよい。 その人気は現代まで面々と続いてきた。 (NHK人形劇「新八犬伝」、市川猿之助のスパー歌舞伎「八犬伝」など)
「南総里見八犬伝」の中に庚申山を広く知られるようになったとも言える「庚申山の場」は、犬飼現八と怪猫の対決し赤岩角太郎(後の犬村大角礼儀)の仇討ちをする場のものである。
八犬伝には、当時の文化が凝縮されており、とくに庚申山を取り上げた事で当時の庚申山探索の手掛りとなればと考えている。八犬伝読本から浮世絵などに広がりそれに係わった当時が伺えます。丁石の寄進者名の手掛かりや、庚申山をどのように紹介しているのでしょうか。
曲亭馬琴・南総里見八犬伝、「庚申山の場」錦絵などは、こちら>>
【庚申山信仰 ・猿田彦神社】
足尾の庚申山地域は、古来より金剛神降臨の垂跡地と伝えられ、猿田彦大神を奉祀し、大己貴命、少彦名命の2神を配祀された地域です。 猿田彦神社は銀山平より46丁の地にあって、奥の院は皇海山頂にある。 祭神は猿田彦大神で、社は始め三猿堂、明治には赤岩神社、大正に猿田彦神社となる。 元禄年間に佐野一信が、安政年間には大先達松翁行者(丹後屋安右ヱ門と同人)により参道が整備された。 特に江戸講中を通じ庚申信仰は大いに広まり、社殿、社務所、参籠所などもを建立した。
宮司は、明治の初めに大忍坊、大正10年から多島元寿が務める。 昭和21年春、宮司が登山したら神社と100人収容の社務所が焼失したおり落胆したと言われている。 28年に小社を新設する。 現在、銀山平に遥拝所(元小滝山神社)がある。 現在は中村昭司宮司が務めている。 社有地115町歩である
参拝者は、江戸期年間3000人、大正期4000人、昭和に3000人とされている。
* 庚申山・猿田彦神社の社殿、宿坊などは昭和21年に焼失、現在は跡地となっている。
<資料リンク> 栃木県神社庁(猿田彦神社)のページは、こちら>>
【庚申山古道(参道) の変遷 と 丁石(丁目石・丁標石・行程石) 】
庚申山・庚申講の通路(古道)は足尾町遠下の磐裂神社から山を越えて、古足尾へ下りそこから以後は庚申川沿いに溯る険しい道であった。 明治になると銅山開発により切幹、小滝間に銅山道(小滝路)が古河により整備され、以降は新しい道を通行するようになった。 その頃の宇津野橋や古足尾橋は吊橋であった。 その後、都度整備され銀山平まで県道として舗装道路となって現在の姿になった。 銀山平の先は、銅山開発資材の木材調達先として群馬県側の根利山方面から鉄索によるルートを作ったので、その作業道も庚申川右岸に沿って開発された。 昭和に入ってから林道として整備され一の鳥居までは車の通行が可能となる。(一般車は銀山平ゲートまで))
今回探索している道は明治以前から歩かれていた、庚申山・猿田彦神社への古道であります。
足尾町遠下の磐裂神社からの参道(古道)には、丁石が江戸講中の寄進者によって設置され現在にも当時の丁石を見ることが出来る。 丁石とは一丁(約109b)ごとに設置された里程石(丁目石・丁標石・行程石とも言う)で歩いて来た距離や目的地までの距離を示す標石です。 この丁石を探索する事により当時の参道(古道)の道筋(ルート)が解るわけです。 一ノ鳥居から庚申山・猿田彦神社までは現在の登山道と概ね同じ道筋ですので見ることが出来ます。 丁石の起点磐裂神社「一丁目」からの山越え道や庚申川の河原道は荒廃し丁石は一部しか確認出来ず探索中となっています。
丁石以外にも庚申山・猿田彦神社への行程石がある。 磐裂神社参道口や一の鳥居口に庚申山・猿田彦神社までの行程(里程)が刻字された標石がある。
明治中期には、庚申山・猿田彦神社において関東地区の青年會会議なども開催されたとあるので道も整備されたと考えられる。 今回は江戸中後期の(文久四亥年)丁石が設置された当時の参道(古道)の解明にある。
<探索記録> 「庚申山」碑」庚申アンダー銀山平入口 / 「庚申山表口・行程一百八丁石」・磐裂神社町道鳥居際碑 /
「庚申山入口・行程十八丁石」・猿田彦神社一ノ鳥居際碑は、こちら>> /
「1丁目石〜六十九丁目」 こちら>> / 「九十三丁目〜百一丁目」 こちら>> /
「百二丁目〜百四丁目」 こちら>> / 「百五丁目〜百十四丁目」 こちら>>
【古道(参道)・探索履歴】
古道(参道)と丁石の探索記録であり現在継続中です。
【2008.06.22】 「九十三丁目」から終点「百十四丁目」までの探索、本日12基の丁石確認。
【2008.06.28】 「一丁目」、「八丁目」、「十丁目」、「五十八丁目」、「六十九丁目」の4基の丁石をを確認。
磐裂神社付近、「庚申山碑」、「庚申山表口 行程一百八丁」を確認
【2008.08.08】 「五十八丁目」、「六十九丁目」のデータ収集、丸石沢と庚申川合流点付近河原を探索。
「庚申山碑」のデータ収集。
【2008.08.16】 「百五丁目」、「百六丁目」、百十四丁目付近で「丁石基部」を発見。
「庚申山入口 行程十八丁」のデータ収集。 庚申川沿いの古道探索。
【2009.06.20】 「百十四丁目」データ収集 庚申山山内巡り探索。
<探索履歴> こちら>>
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