【佐野一信】
足尾の歴史の中に、1688-1703元禄年間 下野国都賀郡三谷村の佐野一信が庚申山・猿田彦神社への登山道を造り、人を導いたとある。(*注1)
佐野一信の足跡は一信の出生地である旧三谷村にもある。 数年前に栃木県下都賀郡岩舟町周辺の道標調査の際に、岩舟町三谷東と和田地区で「一信建」刻字の丁標石を見ていた。 佐野一信の足跡が岩舟町と足尾(日光)とにあった。
(*注1) 嘉永三年(1850) 芳賀郡真岡の河野守弘書「下野国誌」で庚申山を紹介、その中に佐野一信の記述あり。 出典 : 下野国誌は、こちら>>
佐野一信の出生地で「一信建」の道標のある岩舟町三谷地区は旧小野寺村である。 勝道上人が開いた庚申山は修験道の山である。 佐野一信も修験者ではと思われる文書を見た。 『小山市木沢(現・喜沢)の山王社(現・日枝神社)の修験役の任命に係わる「安房神社文書・小山成長判物・文亀三年(1503)」には、小山成長が神主宮内左衛門尉に対して、木沢の修験役を山王別当から太夫兵衛五郎なる者に、渡し付ける旨の指示書がある。
「晃見文書・小野寺伊勢所蔵」には、宮内左衛門尉の上に「小野寺」の名が見える。 この小野寺氏は、修験道で名を成した足利川崎村の小野寺氏のようである。
小野寺氏は、『吾妻鏡』に登場する鎌倉の御家人で、栃木県下都賀郡岩舟町の小野寺地区一帯を本貫地とした領主でこの地の豪族として活躍した。 その一統が武士であるとともに、山伏(修験道)を兼ね、足利川崎村山伏貞龍坊と称し、生後聖護院(天台系本山派)一門とかかわりを持ち江戸時代まで続いた』とある。 安房神社神主小野寺伊勢と伝あって神社、修験道と深く係わっていた。 佐野一信の小野寺村三谷は山伏(修験者)の里でもあったのだろう。 出典
: 「小山市の地名由来と歴史・喜沢項 菅間久男書」
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【岩舟町の丁石・二十丁】
調査年月日 2007.12.31 / 2008.09.02
所在地 栃木県下都賀郡岩舟町三谷(旧三谷村東三谷)
緯経度 N36 20 37.5 E139 38 25.4
設置年月日 不明 (江戸・元禄期 1688-1703年)
刻字内容
正面 右岩舟 二十丁 一信建
右面 刻字なし。
左面 刻字なし。
裏面 刻字なし。
形状 自然石、三角錐形
寸法 680(GL)-350-220
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この碑のある岩舟町三谷地区での聞き込みでは、佐野姓の家はないという。 佐野姓とは隣の佐野市が近いので佐野家と関係あるのだろうか。(佐野城主であった佐野家は藤原秀郷の直系で名門家である) 旧三谷村も佐野氏の領地であった。
三回の探索では二十丁、十七丁以外の丁石は見つかっていない。 二つの丁石共に山越えの当時の道筋にある。 現在の道路は舗装となっているが、古道の道筋は草蒸して消えつつある。 「右岩舟
・ ・ ・」とあるが現在の岩舟町中心へではなく、岩舟山高勝寺への道のように思われる。
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【岩舟町の丁石・十七丁】
調査年月日 2007.12.31 / 2008.09.02
所在地 栃木県下都賀郡岩舟町三谷和田(旧三谷村和田)
緯経度 N36 20 31.2 E139 38 40.7
設置年月日 不明 (江戸・元禄期 1688-1703年)
刻字内容
正面 右岩舟 十七丁 一信建
右面 刻字なし。
左面 刻字なし。
裏面 刻字なし。
形状 自然石、長細い三角形
寸法 1100-250-150
状況 草の斜面に倒れている。
立っていれば二十丁と同じ感じなのだろう。
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