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【山行日】 2006年 02月 12日 (日) |
【天 候】 晴れ 西風強い |
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【山 域】 県南東部 |
【所在地】 真岡市東大島 |
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【地 図】 1/2.5万図地理院(岩瀬・北西)
地図(磯山) |
【同伴者】 単独 + 「なな」
【関連ページ】
一緒に歩いた浅間山はこちらです。
桜町陣屋・二宮尊徳はこちらです。 |
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【コースタイム】
浅間山・二宮町阿部岡12:35 - 東大島公民館12:45 - 磯山・切通しに駐車13:00
- 爆弾三勇士の碑13:02 - 磯山・一等三角点13:08-15 - 駐車地13:20 - 桜町陣屋(二宮尊徳資料館)13:25
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【磯山・一等三角点】
ここも前回近くの浅間山とセットで標石を見にやってきた。その時は真岡ふたば幼稚園の磯山自然教育園のところから真っ直ぐに標石に向かった。その時はデジカメもなく記録はメモだけだった。はっきりと場所は覚えているので目をつぶっても行ける。浅間山から磯山の途中で東大島公民館に寄った。そこに掲げられていたで地域つくり推進委員会の「東大島歴史散歩」を見た。磯山は古代遺跡で昭和34年に発掘調査され旧石器時代の石器が多数発見された。栃木県での初めての遺跡発掘であった所であった。
また、爆弾三勇士之碑のある事も分かった。興味があったので碑を探して磯山を一周した。そうそう磯山の名はこの辺の地は磯という集落なので磯山のようだ。磯山の北西には垂直の岩がむき出しの駐車場があった。8字環の練習に良い場所のようだった、その上部はクヌギ林で下草が刈り払われた場所である。真岡市が整備しているらしくベンチも多数置いてある。そこから磯山を縦断する細い道がある。この道は真岡ふたば幼稚園の磯山自然教育園の前の道である。爆弾三勇士之碑を探しながらここまできたが、このまま進むと磯山自然教育園の前に行ってしまうので適当な所に車を止めた。真岡市の境界杭のある林の中の道を落ち葉を踏んで少し進むと先に何か構築物が見える。あっ、これが探していた石碑かー、見た目は新しい石碑である。
ここから雑木林のふぁふぁの落ち葉が積もった中を進むと、枕木の並べられた道にでる。キャンプの跡だろうか平らな土地の中心部に焚き火の跡がみられる。立ち木に赤ビニルの巻かれているのを見る。明るい雑木林の中心に標石があったはずだ。林に入ると測量の白いボードが転がっているのが見え近くに標石、そして白い標柱が立っていた。ここにもその後付けられた山名板「栃木の山紀行」が木に打ち付けられていた。標石は一等の字がかろうじて見えるくらい深く埋められている。
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磯山山頂 |

一等三角点・標石 |
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山名板 |

岩の見える駐車場 |
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【爆弾三勇士之碑】
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三勇士之碑・顕智上人碑(中央) |

磯山の西の端の眺望は良好 |
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爆弾三勇士之碑があるのを知って栃木にもあるのだと驚いた。
爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)とは、上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、蒋介石率いる19路軍の築いた鉄条網に突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した歩兵第24旅団(久留米)の工兵、江下武二、北川丞、作江伊之助の一等兵三名のことを指す。戦死後それぞれ二階級特進、陸軍伍長となる。壮烈無比の勇士としてその武功を称えられ、映画や歌にもされ、陸軍はじまって以来ともいわれる弔慰金が集まった。しかし、戦後になって、実際には、導火線の長さ、あるいは導火線の種類にミスがあったため、帰還に失敗した事故を美談に仕立てたものである、とする説も出ている。(百科事典による)
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