奥日光に埋標された宮界標、御料局三角点を探索する。 今日は半月山から社山間の界標調査に歩く。
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【山行日】 2009年 9月 13日 (日) |

「宮 字松立山」 |
【山 域】 半月山、社山 |
【地 図】 1/2.5万図地理院 (男体山)
地形図(半月山・社山) |
【天 候】 晴、風強い 紅葉はまだまだ
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【所在地】 栃木県日光市
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【同行者】 大宮のタラノメさん、山部の2名
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先の尖がりが社山 1826.6m 手前ピークが中禅寺山 1665m 半月山の西から撮影
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【中禅寺湖を囲む尾根、半月山・中禅寺山・社山】
今回も界標調査に奥日光へ、朝6:30に中禅寺に着いた。 温泉ヶ岳方面を見ると先の金精の県境尾根に白根方向から帯状の雲があり、白根や五色山周辺調査は止めとした。 空全体を見て半月山〜社山の尾根には雲が掛かりそうも無いと読み、本日の調査をこの尾根にした。 結果今日の天候は読み通りであった。
ハイキングなどで目的の山が決まるとルートはどこからとあれこれ迷うが、界標探しの目的があるとそれも無い。 何度も歩いた半月山周辺の尾根であるがそれほどの印象はない。 半月山から社山は中禅寺と足尾を分ける尾根、その尾根の印象は公害の尾根と思っている。 足尾の松木渓谷の山々はご存知通りであるが、この尾根にも影響は多大なもので樹林が消えたことにより表土が流れ尾根崩壊は今でも続いている。 人の手が入った林野は太古からの植生を変えた、日光の山々に笹が多いのは人が作ったものの様で今に生きているものとして申し訳なく思ってしまう。
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半月山展望台 |
足尾・松木渓谷 奥は庚申山と皇海山 |
【半月山から半月峠へ】
半月山は尾根のピークで長い、山頂の東端に界標「宮 界甲四八」、隣に山林局「山 主三角点」、中央ベンチに国地院「三等三角点」があり標石の展示場をていしている。 山名板も新しいものが増えて神社の絵馬のようだ、その中で「日光山紀行」の書体雰囲気は私の好みだ。
頂上の西端の小ピークに界標「宮 界甲五〇」があった、背後に男体山がありロケーションは最高である。 東に「四八」があるので再度、国地院の標石付近に戻って「四九」を探したが無かった。 展望台の方から話声が聞こえるそろそろハイキングの方が来たのかなと思った。 それでは界標調査に出発だ、「五〇」から30mの所に展望台があるのでその下を調べたが廃材がありそこそこで終了した。 半月山山頂部には樹林があるが、峠への尾根はミヤコ笹になっている。 足先に神経を集中して笹の中を横に縦に動かしながら道から離れ尾根筋を確認しながら下った。
登りでも30分もあれば歩ける尾根を1時間探したが無く、半月峠が見えてきた無いなーと峠にあること期待した。 裸地になり道も掘れたススキのある所に着たら界標が横たわっているではないか、ゴロっと動かすと「界甲五一」が見えた。 なにー、半月山山頂西で見たのが「五〇」である、次の界標がこれだとすると途中に無いというのか。 「五一」には赤ペンキが薄っすらと付いていた、この感じでは5年前には現役だった証拠である。 しかし、裸地になり表土が流れ倒標してしまったようだ。 倒れていたのならと、その場に立て周囲に石を積んでケルンにした。 倒れていたので界標の長さなど普段計測できないので今回全長や基部の状態を調べた。 界標などの標石が作られたのは明治時代なので尺貫法である。 長さは約760mmだからニ尺五寸の長さであろう重い、この感じでは60キロ位の重量と見たがいかがかな。
峠の方から鈴の音が聞こえた、一人上がって来た、峠に下り挨拶し話をした。 埼玉県大宮の方でタラノメ氏であった、界標調査の事を話した。 ご奇特にも"一緒に探してくれる"という、ここから目的地の社山山頂先まで探してもらった。 感謝である。
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字スリバチ久保 界甲五五 |
中禅寺山のブリキ山名板 |
【峠から中禅寺山へ、阿世潟峠へ】
半月峠から普段なら20分もあれば上りきる所なのだが、ここでも界標探索である。 1655mピーク手前の界標には字名が刻字されている。 ピークの立ち木に「中禅寺山1650m」山名板が掛かけられていた。 ちょっと標高が違うようだ、国地院地形図の1655m値と違う、私のGPSでは1654m誤差1mと表示していた。 付近に同じ標高が無いので間違ってしまったようだ。 この中禅寺山ピーク前後では界標は連続して確認出来た。 しかし、崩落している所に来ると尾根がなくなっている。 これでは当時のものは谷に落ちてしまったようだ。 そこから界標を見れなくなる、阿世潟峠手前の裸地でまた刻字面を地中に埋もれた石を見た。 堀り起こすと「宮 界甲六〇」であった、刻字面を起こして峠に下りた。 先行のタラノメ氏から峠の界標を教えていたただく。
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雨量観測設備 |
一幅の絵 |
【社山へは、阿世潟峠からがメイン】
阿世潟峠にはニ組の方が休んで居た、社山へのメインルートがこの峠であろう。 峠からは何人もの方に先行してもらったり、すれ違った。 界標は峠の上にも「宮 界甲六二」一基あった。 笹の中である。 これを最後に界標は社山山頂までは無かった。 社山は中禅寺や足尾から見て目立つ存在で存在感がある。 社山尾根は足尾と奥日光を分ける尾根(分水嶺)で明治期には足尾の本山地区から阿世潟峠や半月峠を越えて沢山の人の通行があった。 足尾で働く若者は休日に奥日光に遊びに来た事が当時の様子が書にある。 それも足尾が衰退し細尾峠にトンネルが開通すると、一部の方が歩かれる古道になった。 足尾側への道は草生した道になりつつあります。
社山の人気は何と言っても景色のよい山ではないか、紅葉の頃は中禅寺湖に上野島を浮かべ長く延びた八丁出島や円錐形の男体山は一幅の絵になる。 樹林の無い尾根は風が吹きぬけ心地よい歩きは出来る。 しかし私は樹林の中を歩くのが好きだが。
社山山頂の国地院三角点標石の横に寝転んでいる石を見ると刻字は見えないが標石と直ぐに見て取れる。 スコップなど調査道具を持っていたので周囲を掘ると「山」が見えた、タラノメ氏が頭部の土を除くと「+」も見えた。 山林局の主三角点である。(半月山と同じ) 倒れているのは人為的か表土が流れてかはわからないが当時ここに三角点を設置し付近の測量をしたの解かる。 奥日光は明治から宮内省、農商務省山林局、参謀本部陸地測量部などがそれぞれに三角点を設けた。 私は社山山頂に御料局三角点があったのではと仮説もっているが未だに見つかっらない。 これからも何度もここに来るだろう。
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社山山頂へ笹の中を探す |
農商務省山林局の主三角點、標石 |
【界標 宮 界甲七三】
社山山頂は西側に樹林が残っている、タラノメ氏から「七一」がありましたと言ってきた。 ありがたい頂上までの尾根には界標は無かったので尻切れトンボだったので、山頂尾根で確認出来たのは意義がある。 やはり樹林が残っいれていれば界標は有るのだと改めて思った。 「宮
界甲七一」は、踏跡脇にあってやや傾いているが完全な状態であった。 計測、写真撮影をする。 それが終わるとさらにその先はと考えるのは当然である。 社山山頂西端から黒檜岳に続く尾根はなだらかな笹尾根が続く、見ようでは穏やかな景色のよい雰囲気に思える。 しかし樹林の消え尾根の表土が流れ侵食されてなだらかになったものであり少し寂しく思える。 感傷はここまでさて、「七一」の次を探すも見つからなかった、あきらめて山頂に戻ろうと一二歩いた所で、後からこれではと再び声がした。 戻ると地表には「+」だけを見せた標石である。 大きさからして界標に間違いない、早速周囲を掘ってみると「界甲七三」が表れた。 先ほどの「七一」と「七三」を結んだ線上は樹林は消え笹原になっている。 「七二」探索は現在の尾根の樹林縁を探したが無かった。 この「界甲七三」界標からやや90度曲がって黒檜岳へと下って行く、続きは次回調査とするもと来た尾根を再び探しながら戻った。
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「宮 界甲七三」は樹林側で残った |
埋もれた標石を掘り出した |
【帰りのポカミス】
半月峠を過ぎて振り返りながら社山や足尾の山々を見た。 笹原を歩くと道に岩が出る、腰掛に丁度よい岩に腰掛けて一服する。 肩に掛けたカメラを岩の後の笹の上に置いた。 500mlペットボトル4本目が最後である、もう直ぐ車にもどる最後の一本はミルクティー、パンは4個もあるので食事とした。 界標も15基も探せた、天気も良いし最高の一日だった。 さあ出発、ひと登りで展望台だ、時間の記録にとカメラに手をやった、無い。 さっき休憩したの所は峠から少し上の所である。 ザックなどを展望台下に置き空身で駆け下った、戻ってからザックを背負い笹原を下った。
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社山の夫婦がま石(社山山頂下) |
石舞台 (半月峠-半月山間) |
【ルート】
小山( 5:30)−鹿沼IC(6:00)−清滝IC(6:30)−歌ヶ浜駐車場(6:45)−半月山駐車場(7:07)−半月山山頂(8:00)−半月峠(9:10)−中禅寺山(10:00)−阿世潟峠(11:20)−雨量観測点(11:45)−社山(12:45)−界73(13:10)−社山(13:25)−阿世潟峠(14:15)−中禅寺山(15:00)−半月峠(15:15)−(カメラ忘れて40分ロス)− |