旧宮内省日光御料地 御料局三角点・宮界標

  
御料局三角點 ・ 四等 (七曲)                 宮 界標 (御沢)    


日光の山々を歩いていると「御料局三角點」「宮界標」標石に出会う。 この標石や界標は御料地管理のため明治期に旧宮内省帝室林野局が設置した。 日光の御料局三角点や宮界標を調査し旧宮内省の明治期測量の証しを調査記録している。現在の界標の大部分は、日光森林管理署に引継がれ国有林の界標として現在も使用管理されている標石が多い。

日光御料地は、中禅寺湖を取り巻く山々と男体山西側地域の『奥日光御料地』、男体山の東に広がる地域を『野州原御料地』と分けて掲載している。( 二つに分けたのは現在、大正期の五万分ノ一地形図の御料地名記載による。 林野庁日光森林管理署、日光・奥日光森林事務所が二つに分け管理されている。その他に小倉山御料地などあり総称が日光御料地である。)



御料地の界標リスト こちら>>


奥日光御料地の「御料局三角點」

「御料局三角點」 こちら>>

奥日光御料地の「宮 界標」

- - - - - 「界イロハ・・へ」中禅寺湖畔に点在 - - - - -

「宮 界標」・中禅寺湖畔・立木観音道付近 ( 界イ ) こちら>>

「宮 界標」・中禅寺湖畔・八丁出島、上野島周辺( 界ハ・ホ ) こちら>>

「宮 界標」・中禅寺湖畔 千手ヶ浜・千手堂周辺 ( 界へ )  こちら>>


- - - - - 「界 甲」華厳ノ滝〜県境尾根〜太郎山 - - - - -

「宮 界標」・狸山、半月山の尾根 ( 界甲40 - 48 ) こちら>>

「宮 界標」・半月山〜社山 ( 界甲50支1 - 73 ) こちら>>

「宮 界標」・社山〜宿堂坊山 ( 界甲  ) 概要調査済

「宮 界標」・宿堂坊山〜2077m峰 ( 界甲288 - 26□ ) 09.09.021 ☆編集中

「宮 界標」・2077m峰〜錫ヶ岳〜白根山〜前白根山 ( 界甲  ) 概要調査済

「宮 界標」・前白根山〜金精峠〜温泉ヶ岳 ( 界甲454ノ3 〜 469 ) こちら>>

「宮 界標」・温泉ヶ岳〜於呂倶羅山( 界甲528,557,558,561,573,578,580 ) こちら>>

「宮 界標」・於呂倶羅山〜山王帽子山 ( 界甲642 〜 界甲620 ) こちら>>

「宮 界標」・小太郎山〜太郎山東斜面 ( 界甲690 〜 701? ) こちら>>


- - - - - 「界 乙」二荒山神社〜男体山山麓〜太郎山 - - - - -

「宮 界標」・太郎山東斜面 ( 界乙 4 〜 20 ) こちら>>

「宮 界標」・太郎山東山麓 ( 界乙21 〜 界乙 38 ) こちら>>

「宮 界標」・太郎山東山麓・寒沢宿道 ( 界乙39 〜 界乙 50 ) こちら>>

「宮 界標」・太郎山東山麓・寒沢宿道 ( 界乙51 〜 界乙 60 ) こちら>>

「宮 界標」・太郎山登山口尾根・演習林境界 白ポール( 界乙61 〜 界乙 68 ) 編集中 

「宮 界標」・演習林、中ノ沢、林道 ( 界乙69 〜 界乙 77 ) こちら>>


「宮 界標」・太郎志津分岐下 ( 界乙78 〜 界乙 96 )
 
編集中 09.05.16

「宮 界標」・男体山・七曲-御沢付近 ( 界乙 97 〜 界乙 107 ) こちら>>

「宮 界標」・男体山・七曲付近
(
界乙108 〜 界乙133 )
 こちら>>

「宮 界標」男体山・三本松付近 探索中

「宮 界標」男体山・三本松上部付近 ( 山ノホ ) ( 界乙210 )こちら>>

「宮 界標」男体山・菖蒲林道 ( 界乙211 - 215 ) こちら>>

「宮 界標」男体山・龍頭ノ滝上部山腹の薙 〜( 界乙218 - 230 )〜 古薙 こちら>>

「宮 界標」男体山・古薙 〜 古薙一本南の薙間   未踏

「宮 界標」男体山・古薙一本南の薙〜(界乙242 - 247 )〜山腹1800mの薙(丸山上の山腹) こちら>>

「宮 界標」・男体山・丸山尾根上の薙〜( 界乙250 - 260 )〜西六番付近 こちら>>


野州原(日光)御料地の「宮界標」

日光の「界標」荒沢川〜唐沢水場( 界362−界405 ) こちら>>

日光の「界標」殺生禁断境石〜稚児ノ墓( 界400 ) こちら>>

御料地の測量と標石

かつて幕府の領地は御料地、皇室の領地は禁裏御料所などと呼ばれていましたが1885年(明治18)宮内省に皇室の所有地を管理する御料局がおかれ皇室の領地は御料地と公称され1889年(明治22)からは官林の一部が御料林として編入されることになりました。御料地には皇宮など皇室が直接所要する第一類御料地と収益事業用の第二類御料地があり御料林は後者に属します。御料林の大部分は1889〜90年(明治22、23)に官林を移管されたものでしたが、境界や面積が不正確であったため御料地の事業計画に先立ち境界を査定し測量により面積の確定を行いました。初期の測量は困難を極め測量作業に従事中、絶壁から墜落死亡された殉職者もありました。[農林大臣官房総務課:農林行政史 第五巻下 農林協会 1963 P1179][帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 P231 山部蔵書]

御料局は1908年(明治41)に帝室林野管理局、1924年(大正13)帝室林野局に改称されました。戦後、御料林は林野庁に移管されましたが御料局の三角点は現在も長野県の八ヶ岳周辺をはじめ、岐阜、新潟、神奈川、栃木などに残置されています。上條武著「孤高の道しるべ」には1891年(明治24)に就任した初代御料局測量課長の神足勝記(こうたり・かつき 1854〜1937)の業績とともに御料地、御料林の成立について記述されています。[上條武:孤高の道しるべ 銀河書房 1983 P528 山部蔵書]

御料地は近傍にある陸地測量部の一、二等三角点を基準とした三角測量により境界測量の基点を設定することが多かったのですが御料地内に三等三角点が既存の場合は、その成果(経緯度)と距離によって基点を定めました。御料局の標石は1894年(明治27)に定められた御料地測量規程(御料局長達第一二一七號)で寸法、形状が決まっています。三角点は一辺が12〜15センチメートル、高さ約75センチメートルの角柱で上面は隅切り、×の刻印があり5分の4を地下に埋めます。標石にかえ地中標や自然石を使用する場合もありました。「本點」(三等)のほかに「副點」(四等)があり標石の場合「御料局三角點」の刻字があります。三角点が不足する場合には「補点」を設けました。また三角測量によらず多角測量による「細形測量」の場合は「御料局測點」の刻字があります。御料局三角点には規程で定まっていないケースも多く「本點」には二等もあり東北地方では見つかっています。また刻字も表に「御料局」裏に「三角點」とあるものや字体が異なるもの、上面の×印が+印などあります。[御料局:御料地測量規程 第一二一七號 1894 大阪市立中央図書館蔵]

このほか宮三角点という刻字のある標石があります。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びており宮内省を意味します。御料局が1908年(明治41)に帝室林野管理局と改称され、この機会に「御料局三角點」から「宮三角點」に変更されたました。境界標石にも「宮」が刻印されたものがありますが、これは「宮三角點」よりも以前からつかわれています。[御料局:御料地三角點石標ヘ彫刻スル文字ノ件 第一二一九號 長官ヘ伺定 1909]  出典:「三角点探訪」 上西勝也様


   
  私が奥日光の日光御料地の概要を得たのは林野庁塩那森林管理署発行「塩原御料林史」中の「栃木県管内全図」に朱書きされていたものを見た時であった。
この図は小さなものであったが、これを元に調査を始めた。幸い奥日光の主たる部分は概に歩いているので詳細の調査となった。同時進行で進めている国土地理院三角点標石の確認調査と重なる所もあった。
奥日光の冬季は多量の積雪もあり、本格的には雪の消えるのを待っての調査となる。

その後の調査で、五万分一地形図(男体山・日光)M42縮図・T1測図に官有地として御料地の記載があることを確認した。しかし他地域では記載は確認していない。

日光御料地の界標 こちら>>  塩原御料地の界標 こちら>>  
井頭御料地の界標
 こちら>>   
栃木の山283+ こちら>>

更新日 2009.10.11 / 2010.8.22     山部薮人