界標 「界四〇五」 (唐沢小屋下の水場付近)
奥日光の山々を歩いていると「御料局三角點」「宮 界標」に出会う。 三角点や界標などの標石は御料地管理のため旧宮内省帝室林野局が明治期に設置した。 奥日光の御料局三角点や宮・界標を調査し明治の測量の証しの記録している。当時の大部分の界標は、日光森林管理署に引継がれ国有林の界標として現在も使用管理されている所が多い。 |
「宮 界標」標石リスト こちら>>
奥日光「御料局三角點・宮界標」の目次
奥日光「御料局三角點」 こちら>>
野州原御料地「宮界標」の目次
「宮 界標」・女峰山登山道・馬立 〜 唐沢水場 ( 界348 〜 界 405 ) こちら>> 09.10.11
「宮 界標」・女峰山登山道・行者堂〜 稚児ノ墓 ( 界480 ) こちら>> 10.08.29
かつて幕府の領地は御料地、皇室の領地は禁裏御料所などと呼ばれていましたが1885年(明治18)宮内省に皇室の所有地を管理する御料局がおかれ皇室の領地は御料地と公称され1889年(明治22)からは官林の一部が御料林として編入されることになりました。御料地には皇宮など皇室が直接所要する第一類御料地と収益事業用の第二類御料地があり御料林は後者に属します。御料林の大部分は1889〜90年(明治22、23)に官林を移管されたものでしたが、境界や面積が不正確であったため御料地の事業計画に先立ち境界を査定し測量により面積の確定を行いました。初期の測量は困難を極め測量作業に従事中、絶壁から墜落死亡された殉職者もありました。[農林大臣官房総務課:農林行政史 第五巻下 農林協会 1963 P1179][帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 P231
山部蔵書] 御料地は近傍にある陸地測量部の一、二等三角点を基準とした三角測量により境界測量の基点を設定することが多かったのですが御料地内に三等三角点が既存の場合は、その成果(経緯度)と距離によって基点を定めました。御料局の標石は1894年(明治27)に定められた御料地測量規程(御料局長達第一二一七號)で寸法、形状が決まっています。三角点は一辺が12〜15センチメートル、高さ約75センチメートルの角柱で上面は隅切り、×の刻印があり5分の4を地下に埋めます。標石にかえ地中標や自然石を使用する場合もありました。「本點」(三等)のほかに「副點」(四等)があり標石の場合「御料局三角點」の刻字があります。三角点が不足する場合には「補点」を設けました。また三角測量によらず多角測量による「細形測量」の場合は「御料局測點」の刻字があります。御料局三角点には規程で定まっていないケースも多く「本點」には二等もあり東北地方では見つかっています。また刻字も表に「御料局」裏に「三角點」とあるものや字体が異なるもの、上面の×印が+印などあります。[御料局:御料地測量規程 第一二一七號 1894 大阪市立中央図書館蔵] |
![]() |
奥日光の日光御料地の概要を得たのは林野庁塩那森林管理署の「塩原御料林史」の中の「栃木県管内全図」に朱書きされていたものを見た時であった。 この図は小さなものであったが、これを元に調査を始めた。幸い奥日光の主たる部分は概に歩いているので詳細の調査となった。また同時進行で進めている国土地理院三角点標石の確認調査と重なる所もあった。 調査は奥日光の冬季は積雪もあり、2008年は年末で中止となり、2009年は三月から調査を開始した、本格的には雪の消えるのを待って四月から再開した。 |
奥日光御料地の界標 こちら>> 塩原御料地の界標 こちら>>
井頭御料地の界標 こちら> 栃木の山283+ こちら>>
更新日 2009. 10. 09 山部薮人